足元を見据えながらも。

足元を見据えながらも

 

対面シリーズ……この特集は、僕たちの人生を僕たちの足で踏みしめて歩んでいくための基礎体力を得るべく、方々への対面を勝手に企画しているものです。

今回の語り手:
原田利恵(はらだ・りえ)さん

……熊本市出身。専門は環境社会学、都市社会学。地方行財政専門のシンクタンク勤務を経て、2011年に国水研に着任。中心市街地の研究・交流拠点として、商店街に「むつかどラボAtelier」をオープン。水俣市役所と共に商店街の全店舗調査、店主の地域資源化などに取り組む。2013年に家族の転勤都合で離職。東京とNY生活の後、5年間のブランクを経て、2018年に復職。水俣病や地域再生等の研究課題に再び取り組んでいる。趣味はお茶。

聞き手:高倉鼓子、高倉草児……ガイアみなまた職員

まえがきに代えて

この本がどれだけの人に衝撃を与え、水俣へと導いたのか計り知れない。

医師・原田正純先生が書かれた『水俣病』。1972年に出版されたこの本は、現在も水俣病の入門書として必携の書だ。当時はまだ、水俣病第一次訴訟の判決前。にも関わらず(あるいは、であるからこそ)、原田先生が水俣病の現状を世に伝えようと、全力を注がれていることがひしひしと伝わってくる。
あれから47年。本の中で原田先生が指摘した問題には、未だ解決できていないものもあるが、構想が実現したものもある。その一つが国立水俣病総合研究センターだ。原田先生は文中で「国立水銀中毒研究所」と題し、こう述べている。
「これだけの膨大な住民の健康の問題であるから、国が責任を持って水俣病の研究センターを作るべきである。そこには全住民の健康管理に関する資料と環境に関する資料、さらに実際の治療や治療に関する研究もそこで行われるべきである。これも原爆研究所からの示唆によるものである。そこでは、臨床部門の他に疫学、病理、化学、生物学、遺伝学などの部門もおかれ、さらに、社会復帰、ケースワーカー部門との結合も考えられなければならない。もう、このような研究は大学から独立しなければやれないところまできているのである。」(『水俣病』 岩波書店, 1972年,p. 237より引用)

今回、対面インタビューをお願いした原田利恵さんは、現在、国立水俣病総合研究センターの研究員である。父親が指摘した課題に娘が向き合う。これは偶然か、はたまた必然か。いずれにせよ、利恵さんが水俣にいて研究を続けてくださることが有難く、私はいつもその存在に励まされている。何より、利恵さん個人の魅力に惹きつけられてやまない。
思い返せば2010年、当時大学3年の私は『水俣・明治大学展』に足を運び、リバティータワーで利恵さんによる記念講演を聞いていた。着物を着た、凛とした佇まいの利恵さんを思い出す。原田先生のことを、愛情深く話されていた。そのときに初めて、私は「第二世代」というキーワードを意識した。

時は流れ、このように対面させていただける日の来たことが、感慨深い。

「原田先生の娘」という、周囲から求められる像に囚われることなく、利恵さんは軽やかな足取りで、私たちの想像をふわりと超えていく。利恵さんの人生は利恵さんのものだ。
けれど水俣の話になると、そこには原田先生の姿が見え隠れする。
穏やかな笑顔と、柔らかい物腰でありながら、芯を貫き熱意を表明し続ける姿に、「ああ、この人はやっぱり原田先生の娘なのだ」と思わずにはいられない。

(高倉鼓子)

挫折感より入る

(2019年2月18日、原田利恵さんご自宅にて) ※以下敬称略

鼓子
こういうインタビューを受ける機会はありますか?
利恵
私自身というより、メディアにとっては父があっての私なので、父に興味があるんだろうなというところで取材を受けることはあります。私が父の遺志を継ごうとしているとか、父に絡んで何かをしようとしているという位置づけで。
鼓子
ストーリーにしやすいですよね。すごくわかりやすくなる。
草児
僕らで言えば、「きばる」という流れがすでにあるんだけど、挫折して帰って来た自分には何も胸を張れるものがない。正直いって「違うんだ!」みたいな申し訳なさ、ジレンマを感じる局面が多々あります。
利恵
ああ~、同じです(笑)。すごいわかる。私自身が、東京でうまくいかなかったものがいっぱいあって。告発する会の季刊誌(※)に、父の幼少期の話から始まって色々あってからの、自分が何で水俣に来たのかという核心的なことや、私の挫折感みたいなものを書いたことがあります。

※東京・水俣病を告発する会が発刊する季刊誌『水俣支援:東京ニュース』のこと。

足元を見据えながらも
季刊誌に掲載された文章を見せてもらう。

ライフヒストリーは食卓から

鼓子
一緒に生活される中で、原田先生が利恵さんに水俣病のことを語るという場面はありましたか?
利恵
今思えば、食卓で水俣病関係の人達の名前が出ていた。私に語るというよりも、私の母に「川本さんが何とか」とか、栄子さんが、石牟礼さんが、って喋っていたんですよ。でも私はそのとき多分関心もないし、意味もわかっていない。
草児
たとえばガイアの食卓は、水俣に立ち寄った旅人とかもいる中で政治の話がもろに飛び交う場所だったから、僕らはそういう話題に対してあまりアレルギー反応がないのかもしれない。食卓の会話に左右されることってたくさんあるのかな、と思います。
利恵
でもうちの場合は相手が母しかいないので、かなりお茶の間的な会話でしたよ。うちの母が「石牟礼さんはもうちょっと前髪を切った方がいいんじゃないか」と言ったりして(笑)。
鼓子
可愛い(笑)。じゃあ「これが大事なんだぞ」みたいなことを押しつけられるようなことはなかった?
利恵
公私をわけていたと思います。鹿児島にある父の実家に里帰りする途中で、水俣に寄って「ちょっと待っとって」という感じで、父が患者さんの家を訪ねる。その間に私や妹は湯の児で遊んだり、タチウオ釣りをしたりして待っている。そういうのはあるんですけど、何だろう・・・水俣病のことで語りかけられた記憶が、あまりない。
精神科で当直もあったし、しょっちゅう海外調査にも行っていたから余裕がなかったのかも。あまり家にいませんでした。だけど家族サービスはしようという気持ちがあったから、月に一回は山登りをするとか、旅行は暇を見つけては必ず行く。自分の親が早く死んで、時代的に家族団らんみたいなものもなかったから、そういうのに憧れがあったのかな。うちは二人姉妹で、それこそ私と妹が喧嘩していたら父が怒る、みたいな。本当に、普通の家なんですよ。
鼓子
そうなんですか・・・ちょっと意外な気もします。
利恵
父は私に、一回も「医者になれ」って言わなかったんですよね。それよりも、自分は嫌々医者になったっていう話ばかりするんです。
草児
それは面白いですね。
利恵
高校に入ってから父は、演劇にハマったんですよ。3年間どっぷり、文学青年。小説とかもノートに書き散らしているんです。それで高校3年生のときも、受験勉強もせずに演劇にうつつを抜かしていたら、鹿児島県で演劇の賞が取れたみたいで。脚本か、演出か何かで新聞に父の名前が載ってしまって。そのときは寮に入っていますから、親は「当然勉強しているだろう」と思っていたところが「何、演劇なんかやってるんだ」と。祖父(※正純さんのお父さん)も医者だったんですね。父が言うにはそのとき「医者にならなければ勘当だ!」くらいの勢いで怒られた。本当は演劇でなくともマスメディアとか・・・文章を書くのが大好きだったし、早稲田大学に行って雑誌や新聞などの仕事をやりたかったみたいなんですけど。
でもこれは父も自分の本の中に書いていますが、祖父が苦労しているその背中を見てきているから、「俺は医者にならない」なんてことは言えなくて、「わかった」と。ただ勉強はしていなかったので、「一年、浪人させてください」とお願いして、どうせ落ちるだろうから「東大の医学部受ける」と言ったらしいんですよ。
草児
ダメもとで。
利恵
そしたら祖父が、まあまあ、そうは言ってももう少し可能性があるところ、近いところを受けなさい、と。それで熊大を受けたら、受かっちゃった。

足元を見据えながらも

鼓子
おめでとうございまーす!
利恵
話が芝居がかっているから、どこまで本当かはわかりませんけれど・・・。「明日は試験だな~、と思いながら立ち寄った本屋さんでパラパラと開いたところがそのまま出た」と言っていました。

稀代のストーリーテラー

草児
でも、その実績は本物ですよ。あの、家族の来歴をちゃんと語れるというのは、すごいことだと思うんです。お父さんのことをどこかで再評価されるタイミングがあったのかな、って。
利恵
ファミリーヒストリーに関してはもう、食卓ですね。父は水俣病の話はあまりしないけれど、話をすること自体はすごい好きで、ずっと喋っていました。
草児
そういうイメージがないんですよね、僕らには。
利恵
たとえば、いろんな先生と一緒にカナダに水銀汚染の調査に行ったときのことを、『インディ・ジョーンズ』の映画の主人公にでもなったかのような雰囲気で話すんです。父が帰って来たら何が楽しみかっていうと、その土産話が。
草児
稀代のストーリーテラーですね。
利恵
旅先でハプニングがあるじゃないですか。メンバーは錚々たる学者先生なんだけど、みんなあまり家事能力がない(笑)。父はちょっとだけ自信があったので、材料がないところでも「何が食べたいですか?どんなものでも作ってみせます」と言った。そしたら「うどんが食べたい」「うどん!?どうする~?」みたいな話になって。結局、トウモロコシの粉か何かを使ってそれっぽいものを作ったそうです。
草児
どっちもどっち(笑)。
利恵
今思うと、関わっていた人がみんな明るかったというか。水俣病の患者さんとの話でも、どこか明るさがあった気がします。

キーワードは「アイデンティティ」

草児
最初にご自身の足で水俣に入られたきっかけというのは?
利恵
自分の中で大きかったのは、父が胃癌を患ったこと。大学4年生だったかな、そのときまでに私、『水俣病』も読んだことがなかったんですよ。父が胃癌になった後に初めて、それこそ遺書を読むような気持ちで読んだんです。あと、宇井先生の本とか『苦海浄土』も同じ時期に読みました。まず最初に湧いてきた感情は怒りですよね、この理不尽さに対する。「何だこれは」と思った。それで、「こんなことがあったんだ」「私、今まで何していたんだろう」みたいなことを考えました。
鼓子
すごく身近にある本だからいつでも手に取れたと思うんですが、大学4年になるまで取れなかった・・・取らなかった、ということですか?
利恵
何となく関わりたくなかったというか。
鼓子
そうですよね。
利恵
やっぱり、暗くて重いものですよね。『水俣病』の原田先生の、お嬢さんっていう・・・「水俣病の」がつくのが嫌だった。本当に申し訳ないんですけれど。
草児
僕も水俣病関係の本を読んだのは大学に入ってから。ちょっとぐらい読んどかないと、って読んでみたら利恵さんと同じで、衝撃、怒り、涙なんですよ、最初は。僕の場合はその後、水俣出身であるということについて一回、自意識が過剰になったんです。それって誰もが通る道なのかな、というのをお聞きしたいのですが。
利恵
私はもう進路がほぼ決まっていたので「私、何で医者にならなかったのかな」と思いました。後を継ぐ、ということではないけれど、問題に対して専門的、具体的な力があれば・・・という気持ちで。自分の無力さというか、「怒っても私、何もできないよなあ」って。
鼓子
大学院時代は何を専攻されていたんですか?
利恵
私が入ったところは都市社会学や環境社会学の牙城だったんです。「とにかく現場に行け、声を聴け」という感じのところだったので、私が水俣病をやりたいと言ってもそんなに違和感はなかった。
草児
論文を在学中に書かれて(※)、それが聞き書きというか、ライフヒストリーを綴ったものになるわけですか?

※「水俣病患者第二世代のアイデンティティ」(『環境社会学研究』第3号,1997年)

利恵
そうですね、そのときのキーワードは「アイデンティティ」だったんです。自分も二世的に扱われることがあるので、水俣病の第二世代というところに非常に関心があった。社会学なので、医学的な分析や法律ではないものなんですよね。ライフヒストリーを時系列でまとめて、その人にとって人生で大きいイベントのところに小見出しをつけていく。水俣病って、何だろう・・・もちろん自分たちも影響を受けていますよね。それくらい大きなインパクトのある事件で。当時は、身体的な被害を受けていないし普通に暮らせているという人であっても、実際はどんな社会的な影響があったのかということに、すごく関心があったんですよ。水俣病といっても病気だけではなくて、家族関係が崩壊したり、親戚、地域とか、いろんな被害が本当に連なっているので。逆に若い世代の方が身体的な被害があまりないぶん、社会的に何らかのマイナスの影響を受けたことが見えるのではないかと。

足元を見据えながらも

利恵
もちろん経済的にもそうですよね。患者さんの家は困窮しているご家庭がほとんどだったので。そこから、都会に出るにしても何をするにしても、マイナスからのスタートというか。自分が散々バブル期に豊かさを体験したがゆえに、その「理不尽さ」が浮かび上がればいいな、と。だからチッソ側の第二、第三世代にもすごく興味があったんです。結局今もこんなに格差あるよね、みたいな。単純ですよね・・・恥ずかしいんですけれど。もちろん家族、子や孫に責任はないですよ。でもやっぱり被害は社会的にこれだけ継続しているよね、ということを明らかにしたかったというか。

利恵さんは潜入捜査官?

草児
「理不尽」という言葉は僕も浮かんで、義憤に駆られた。でも地元に帰ってみたら、考えることが少し変わってきた。理不尽って、じゃあどこに対して何が理不尽なのか。そして誰が感じているのか。千人いれば千通りの理不尽さがある、っていう。チッソ側の理不尽とは何だろう、患者側の理不尽とは何だろうって。ところで利恵さんが本格的に水俣に住み始めるのは・・・?
利恵
研究テーマに水俣を選んだといっても東京にいたので、がっつり水俣に取り組むことになったのは国水研(※)に就職してからですね。その前は、東京のシンクタンクでまちづくり的なことをやっていました。

※国立水俣病総合研究センターの略。事業の詳細は下記URLより閲覧できます。
http://nimd.env.go.jp/

利恵
その頃はとにかくもう、特措法を作って水俣病は全面解決、もやい直しもうまくいって地域再生に向けて・・・という流れがあった。お上から見れば地域紛争なんですよ。病気とか、そこに加害者と被害者がいて、という視点がない。このエリアで紛争が起こっている、と。双方に主張があって、揉めている。だからそれを平定しなければいけない。
草児
統治論的には合っているんでしょうね。納税を滞りなくさせるために、その地域をもう一度立て直すっていうのは。
利恵
そういう思考でいる人の前に「何か患者側に顔が利きそうな奴がふらっと来たぞ」、みたいな(笑)。私が国水研に入るというのは、双方の橋渡しという役割を期待されている部分がありまして・・・。まあ、ちょっと驚かれましたね、各方面の人に。批判的な驚きと、興味本位な驚きと・・・。
草児
ニュアンスとしてはそうなのかもしれないけど、結局本人にしかわからないところですよね。
利恵
大学院でずっとフィールドワーカーとしての教育を受けたがゆえに、「これって究極の参与観察じゃないか?」ということも思ったんですよね。被害者側の情報だけだと、役人とかって、市民も含めてどれだけ非人道的? というくらいな感じだけど、「実際のところはどうなのよ?」というのが知りたいのもあった。「権力は優しい顔をして寄って来る」というか、権力は必ずしも怖い顔をしてやって来ないんですよね。
鼓子
私は、利恵さんが潜入捜査官だと思って見ているんですけど(笑)。そこに染まらないというか、関わっていながらも自分の軸がぶれないようにしている・・・?
利恵
仲間に恵まれているんだと思います。研究者仲間がいて、折に触れては私のことを「参与観察している面白い研究者」として呼んでくれるんですよね。面白がってくれているから。それで冷静になれる。
鼓子
自分を取り戻せているんですね。

「彼ら」に通じる言葉を獲得する

草児
利恵さんがこれから何をやろうと思われているのか、聞きたいです。水俣病というテーマに関して、過去を語り続けることと新しい方向を向くということは、僕らにとっては同じことではないかと思うのですが、そこをうまく表現できないというジレンマが常にあります。
利恵
そうなんですよね。それも含めて私なりに、大いなる野望はあるんですよ。石牟礼さんなんかの影響を受けていますけれども。あの・・・「どうしたらチッソ側の人に振り向いてもらえるんだろう」という。
鼓子
わかります。
利恵
うん。どうしたら通じるんだろう、って。北風と太陽ではないけれど、私たち世代のやり方があるな、と思っています。北風だけだったらどうしても振り向いてもらえない。だから太陽というか、彼らに通じる言葉を私も獲得するしかない。たとえば裁判という場での戦略なんかを聞いていると、相手方はもう人間とは思えないくらいなんです。それでも「彼らも人間だ」というところに立たないと、絶対に交われない。別に罪を許すとか免罪符を与えるとか、そういうことではなくて。人間としての彼らの弱さとか後ろめたさとか、そういうものもちょっと汲み取ってあげないといけないかなというところで、どうしたらいいのかな、と。
草児
うーん・・・。
利恵
私、ニューヨークに行っていたことがあって、そこでモダンアートの面白さに触発されたんです。ニューヨークにはギャラリーがたくさんあって、誰でもフリーで行ける。でもさっぱりわからない作品ばかりなんですよ。ただ、千住博さんが書かれているギャラリー巡りのガイドブック(※)に「モダンアートというのは、反権力、反権威なんだ」と。「近代美術館MoMaの正面を見てみろ、権力の象徴であるオベリスク(※)をポキンと折って逆さに刺してあるだろう」というような一節があって。

※『ニューヨーク美術案内』(光文社新書,2005年)
※オベリスクとは、古代エジプトの歴代ファラオ(王)が建立した記念碑のこと。ワシントン国会議事堂の前にもそびえたっている。

草児
「あるだろう」って・・・(笑)。
利恵
それがアーティストの気概というか。じゃあ近代化の光と陰を歩んできた水俣という街にモダンアートは似合うんじゃないか・・・それからどんどん私の妄想が広がっていきまして。つまり水俣でモダンアートを、アートパフォーマンスやりたい。最終的にはチッソの中で、しかも水俣病患者さんとやりたいんです。
鼓子
やばーい!
利恵
だってチッソという会社は、本当にいろんな化学工業製品を生み出したと同時に、水俣病という公害病を生んだんです。もしかして、水俣病患者という存在自体もチッソが生んだ、という言い方ができるかもしれないですよね。モダンアート的な思考でいくと、自分や親や子をこんな体にした憎いチッソ、そこにあえて「還ってやる」という発想をすることもできるのではないかと思って。それで、たとえば「毒親チッソへの胎内回帰」というテーマを設定して、チッソの工場内でアートパフォーマンスするといったようなことを妄想したりしています。つまり患者さんたちの存在証明を、逃れられないよう、他人事にできないよう突きつけるという意味で。 「あなたには私たちを生んだ責任があるでしょう」、と。
草児
利恵さんがやろうとしていることは、今までの取り組みとは全く別のものになるかもしれない。でもその辺はわからないですよね。過激ではあるかもしれないけれど、そこが面白いと思っています。
利恵
水俣病のことをないがしろにするわけではありません。ただ、研究のための「研究」だったり、異議申し立てをする「運動」のようなものではなく、ちょっと敷居を低くする。

30年前にはできなかったような切り口で

草児
結局、過去を伝えるために今、新しい切り口が必要だと。でも肝心なのは、周りにそれをどう上手く伝えていくかということだと思うんです。利恵さんの野望の中には、チッソの若い人がその表現されたものを見ている、という画もあるはずですよね。見て、再評価して、お互いに話すきっかけができるというところまで考えておられると思うんです。
利恵
だって敵対しているだけではもう本当に・・・妥協ではないけれども、向こうが乗って来やすい仕掛けも必要だと思う。紛争解決という目的ではなくて「きちんと向き合って欲しい」という意味でのアプローチが必要かな、と。そこは似て非なるものと思っています。
草児
もうちょっと中和というか、違う感じを出したいと?
利恵
もちろん裁判で闘うとか、方法はいろいろあります。それがあったからこそ、今になってソフトなやり方もできるわけです。だから、その人たちのやり方を否定するということではない。でもやり方自体はたくさんあった方が、いろんなスタンスの人が入って来やすいんじゃないでしょうか。全員が全身全霊で向き合えるわけでもないですし、ワンコイン参加、みたいなスタンスで水俣病に関わる人がいたっていいよね。
鼓子
30年前だったらできなかったようなことが、今だからできる、という流れになっていると思います。私も、振り向いてほしいというよりも、チッソの人たちと対等に話がしたいという思いがずっとあって。全然振り向いてもらえないっていうのは、やっぱり話を知られていないからだと思っているんです。知ってもらうために、チッソの社長とか、もう辞められた後藤(前社長)さんとかに、バレンタインで甘夏やら何やらを送っているんですよ(笑)。「甘夏を食べてもらいたい」って思ったんです。

足元を見据えながらも

利恵
すごいよくわかる。『水俣・東京展』(※)のときに、ポスター配りのお手伝いをしたんですよ。それで私は何をしたかというと、チッソの本社に行ったんです。

※水俣病を伝えるために、認定NPO法人水俣フォーラムが主催する展覧会。1996年の『水俣・東京展』を皮切りに、2019年現在まで全国25ヶ所で開催されている。

鼓子
ポスターを持って?
利恵
「水俣展のポスターを貼ってもらえませんか?」って。まあ体よく追い払われましたけど(笑)。それで実行委員会に戻ってから私が「チッソの本社に頼みに行ったけど、断られちゃった」と言ったら、「当たり前じゃん」って。バカじゃないの? くらいな扱いを受けました(笑)。
草児
その辺りが、時代が変わったということなんでしょうね。でもどっちがいいとか悪いとかの話じゃないんですよね、それって。
利恵
そう、だから柔軟性と言えばいいのかな。
草児
柔軟性の中にも、たぶんコシが必要で。たとえば僕らがちゃんと甘夏で食えていないと、「こいつは何言ってんだ、机上の空論を」って、周りから見ているとなっちゃう。新しいことするためには、ちゃんと生きていないといけないなと思っています。利恵さんはそういう位置におられると思いますけど。
利恵
え、どういう位置?
鼓子
腰を落ち着けつつも。
草児
非常に斬新な。
利恵
いや私はほら、一緒に飛んでいっちゃう側じゃない(笑)?
鼓子
あっはっはっはっは(笑)。

書を捨てよ、町へ出よう

草児
でも国水研の職員として、地域再生をテーマに街中に『むつかどラボ』(※)を立ち上げる。そういう絶妙な位置取りで、人間関係を築いておられる。

※中心市街地活性化研究の拠点となった場所の屋号。水俣市街の六差路に面しているため、この名がつけられた。研究所であると同時に多目的スペースの機能もあり、我々も会議のためによく利用させてもらったことがある。現在は無農薬野菜などを販売する『もじょか堂』という八百屋になっている。

利恵
何で街に入りたかったのかというと・・・いろんな人の書いたものを読むと、ものすごい悪いイメージだったんですよ、街の人が。「水俣市民ってどれだけ民度低いねん!」というくらいの感じで。国水研に入ったときに、地域再生を研究テーマにしてくださいと言われた。それで、直接の被害者や加害者ということではなく、比較的ニュートラルな立ち位置にいる街の人たちって実際のところ何を考えているの?という関心もあって、「じゃあ、中心市街地の活性化をテーマに選びます」と答えたんです。市街地の人は、全然知らなかったんですよ。私のバックグラウンドのことを。
鼓子
全然、ですか?
利恵
全然です。最初は、私がどんな人なのか、どんな育ち方をしているのかも知らない。それで親しくなって飲み会なんかをする中で、水俣病に関してぽつりぽつりとみんな語り出すんですよ・・・私が何となく手向ける感じはあるんですけど。実は私が水俣に来たのにはこういう理由があって、自分の親がこういうことをしていて、というような話を語り出す。すると向こうも向こうで「都会に出たときにこういう反応があった」「自分の親はこうだった」と、ちょっと話題になるわけです。その後しばらくして、何人かが「俺たち水俣に住んでいるのに水俣病のことを知らない。水俣で商売するなら、やっぱり水俣病のことを知っておかないと」(※)と言い出した。これってちょっとした化学反応ですよね。でもそうやって行動を起こすことって、すごいことだなと思う。

※水俣で洋菓子屋や薬局を営む彼らは実際に水俣病資料館へ足を運び、語り部の話を聞いた。それからは、公の場で事業PRをする中でも「水俣病」というワードを使って、自分たちの活動を説明するようになった。

利恵
不特定多数の人に働きかけるのではなく、遠回りかもしれないけれども、一人一人に丁寧に関わっていかないと・・・いくら何百枚とかのチラシを配っても、それは「はあ?」っていう感じで捨てられるだけで、振り向いてもらえない。そうではなくて、原田利恵という人間をきちんとわかってもらった上で、自分の弱さなんかをある程度さらけ出した上で、初めて聞いてくれるんだと思う。私自身が水俣病に対してこういう想いがあったり、悩みがあったということを言って初めて興味を持ってもらえる、というのを商店街に入っていく中で実感したんです。まあ、それはたまたまラッキーな出会いだったのかもしれないけど。
草児
固有名詞を取り戻したいということかな・・・まあ奪われた記憶もないんですが。それこそ利恵さんがおっしゃるように、何人かでいいんです。何人かでも、ちゃんと認識してもらうということが必要だ、と。
鼓子
それがあわよくば、チッソで働いている人とかにも伝われば。「怖い人たち」みたいな括られ方で見られているのが、すごくもったいないし、悔しいなと思うから。そうじゃない、すごく面白くて、変な人で、「話すといっぱいいいことがあるはずだから」っていう届け方ができたらいい。

四畳半の茶室に、情報通の茶飲み婆

利恵
国水研の調査研究は5年ごとに中期計画を打ち出すんですね。そろそろ次の5カ年計画を立てなければいけない。それで私、また次のラボを考えようかなと思っているんですけど。
草児
面白いですね。僕らにとっては、また「場」ができるということなので。むつかどラボのときは、中立地帯というか、緩衝地帯を求めて来る人が多かったと思うんです。息抜きの場になるというか、僕らが色々文句がてら話しても、聞き流してもらえたりして。
利恵
あまり自覚がない(笑)。確かに私って繋がっているものがないですよね、実は。
草児
この土地に、という・・・?
利恵
土地にというか、利害関係があまり・・・国水研には所属していますが、センシティブな話題を相談しても面倒臭くならないといいますか。しがらみは、実はあんまりないのかな。それで自然と情報が集まって来る。この人から話を聞いて「こうかな?」と思っていたけど、実は別の人が話していたことを加味したら「あ~、実はこうなんだ」みたいなことになる。
鼓子
総合的に分析できる立場ですね。
草児
ロールプレイングゲームにおける物語進行の要である、情報通の店の人。
鼓子
そうだ。ドラクエの『ルイーダの酒場』(※)・・・。

※RPGの名盤『ドラゴンクエスト』に登場する酒場。対談では「情報屋」としての意味合いを持たせているが、実際のゲームでは冒険仲間(パーティー)を登録するための機能を果たしている。何らかの「場」という機能がむつかどラボにはあった、ということを伝えたくて、このような発言をした。

草児
お茶屋をやっているんだけど、抹茶を頼んだときだけ何か忠告をくれるという。「そういえば昔あそこのじいさんがね」って。
利恵
(笑)。でも私、お茶はやりたいんですよ。方丈記じゃないけれど、四畳半くらいの茶室にいるんですよ、茶飲み婆が。こうやって、お茶を点てている。モダンアートとは別にもう一個、私の野望としてあるのが「お茶で地域おこし」。お茶って、やり出すとものすごい深いんです。もちろん、素材としてお茶そのものが要りますよね。それからお茶碗にお茶筅、道具がいっぱいある。そしてお菓子でしょう。着物も着るでしょう。何やかやで、まあ文化ですよね。文化がそれなりにあると栄えていく、というか。
草児
その位置取りの仕方でいくと、斜めですよね。お茶をやっている、情報屋(笑)。
足元を見据えながらも
この日も、温かく香ばしいお茶をいただきながらお話を聞いた。
足元を見据えながらも
鉄瓶で沸かされた熱いお湯!
利恵
何で戦国時代にお茶が流行ったかというと、みんな闘っているから心には平和を求めているんですよね。水俣だって、まだ闘いは終わっていないわけですから。

相対化して初めて見えてくるもの

草児
その中で、原田利恵さんという固有名詞ができることをひとつひとつやっていく、と。この対談の折々で触れてはいますが、利恵さんのそういった言動の基盤は「過去」にあるというか、これを「親殺し」というキーワードで表現されていると思うのですが・・・。
利恵
それを言い出したのは、最近のことではないんですよ。父が、胃癌になって死ぬかもしれないと思ったときに、初めて父の死を意識して、そして初めて父の書いた『水俣病』を読んだんですよね。そこで私が精神的に父を殺したというか、自立をしようとした。だって、私は本当に世間知らずな感じでぬくぬくと育って、父のことは全肯定していたんです。だけど親を相対化するというか、親の仕事をちょっと離れた目で見てみたいと考えるようになった。そういう意味で「父殺し」と表現しました。
鼓子
父親がどれだけ自分に影響を与えてきているかということも、その中で見えてきましたか?
利恵
まだかな・・・わからないですね。
鼓子
父を超えたいとかっていう、そういう欲はありますか?
利恵
ちょっと冗談として聞いて欲しいんですが・・・研究者としてはもう全然足元にも及びませんけれども、「水俣に住んでいる」という一点において、私は父を超えたなと思っています。だって、住まないと見えないことが山ほどありますから。地域に暮らしていると、水俣市民といっても色々な人がいるということがわかる。顔が見えてくる関係になる中で、黙ってしまうような環境というのが、理解できるようになるというか。そんな単純ではないんですよね。単純に、敵味方って割り切れない。自分も含めて、この網の目のように繋がっている人間関係って、住まないとわからないと思うんですよ。「住む」というのは、父がなし得なかったことかもしれない。本当に、住んでよかったです。回覧板も、班のお当番だって回ってくるし。お当番があることで気づくことって、いっぱいあるんですよね。
草児
いわゆる井戸端の話、的な。
利恵
水俣病に関して、声高に批判したり正義を言うのって、この土地の中にいたらものすごく難しいんだなということも・・・もちろん頭ではわかっているんだけど。国水研の中だって、患者さんの家族と、チッソの関係者の家族が混在していますからね。
草児
親を見ているからこそ、「じゃあ親がしてないところってどこなんだろう?」というのを探ることができる。最初に親ありきなんですよね。補完する部分を自分で後から見つけるという積み重ね方は、どこにあっても宿命なのかな。僕らこの間、岡本達明さん(※)の話を聞きに行ったんです。そのときに何かの拍子で僕が、自分を軸にして過去を解き明かしたみたいな喋り方をした。すると岡本さんが「違うよ」「出発点は必ず過去だから。あなたが始まりじゃないんだから」とおっしゃった。ああ確かにその通りだ、と思いました。

※『水俣病の民衆史(全6巻)』(日本評論社,2015年)を執筆された方。最近この本を読み、触発されて2019年の1月に鼓子、草児でお話を伺いに行った。

利恵
そうですね。リスペクトの気持ちを表しながら、自分なりのアレンジを出していかないといけない。
草児
「父を殺す」ということの要が多分、そこにあるのでしょうね。どちらが欠けてもいけない。

リカちゃん人形が「ジュルッ」ってなった

利恵
「原田先生って優しかったでしょう?」とよく言われるので、みんなには驚かれるんですけど、家では結構怖かった。でも私は全然、父に対して嫌な思いがないんですよ。妹とケンカしてゲンコツが飛んできたときも、別に理不尽さは感じなかった。・・・まあでも、リカちゃん人形を溶かして怒られたときは、もうちょっと理由を聞いて欲しかったかな。
草児
どうして溶かしたんですか?
利恵
リカちゃん人形が大好きでよく遊んでいたんですけど・・・冬の寒いときに「暖めてあげよう」と思ってストーブのそばに置いたら、「ジュルッ」って溶けた。それで父に「何を危ないことやっているんだ!」と怒鳴られて。確かに、火事になるかもしれないし・・・。
草児
自分自身がやけどするかもしれないし。
利恵
危険な行為ですよね、明らかに。でもそのときは私なりの気持ちがありまして、いたずらではなく「寒かろうに」と思ったから、ただ人形を暖めたかったっていう(笑)。
鼓子
(爆笑)。
利恵
それで「ジュルッ」っとなった。

足元を見据えながらも

草児
でも当時はその気持ちを説明することができなかった・・・?
利恵
そうそう、ワーッて怒られて、何の反論もできなかった。
草児
いろんなことに対して「私にもちゃんと言い分があるんだ」と、今振り返れば理路整然と説明できる、ということだと思うんですが。
利恵
基本的に父に対しての反発とか怒りっていうのは、ないですね。妹からは、父が死んだときに「お姉ちゃんはずっと、親の言うことを聞いてばかりいたから、この人、親が死んだ後どうなっちゃうのかな?と思ってた」って言われました。

蛸壺を掘りながら太陽を見据える

草児
ちなみに岡本達明さんの話で言えば、岡本さんは今、意識的にいろんなところに種を播かれているようです。
鼓子
「医学と行政に関しての総括を、誰かがやらねばならない」と言っておられました。
草児
「君たちがやったっていいんだよ」って。
鼓子
「無理です!」と返しましたけど(笑)。「水俣病は人間の問題だから、本当に面白い」って。「足元に蛸壺を掘りながらも、水平線にある太陽を見据えて歩き続けなさい」という言葉をいただきました。
利恵
確かに面白いんですよね、本当に。
草児
その「面白い」という言葉の持つ意味が、人によっては「けしからん」というような意味合いにも取られてしまうかもしれないけれど、決してそういう意味ではない、と。
利恵
「人間の生き様」っていうのを、こんなに豊かに学べる場はそんなにないですよね。
草児
水俣は確かに、その場の一つですよね。きばるの甘夏が生きてきた道というのも、やっぱりそうですし。人の生きた軌跡がはっきり見えるというのはすごいな、と思います。
鼓子
端境期というか・・・証言が取れる、記録が残せるギリギリの時代に私たちはいるんだということを意識していきたいです。
利恵
草児さん、鼓子さんが今されている「記録に残す」というお仕事、本当に貴重です。私も社会学の研究者として頑張りたいと思います。

あとがきに代えて

原田利恵さんの「野望」は、突飛に思えて実はそうでもないところがあり、でもやっぱり少しハラハラしながら聞いてしまうという、なんだか不思議なバランスを保ったものでありました。「ワンコイン参加」という言葉を、逆に重く感じます。
ときに雨風、ときには雷を受けながらも計画は練られ、表現の仕方が変わったとしてもその芯の部分は揺るぎなく前に進んでいくのだろうと思うと、尻を叩かれた気分になります。それは「意志」を持った人間に対しての、僕の心にある引け目のあらわれです。

(高倉草児)

そのあとのこと

このインタビューをさせていただいたのは、2月。
それから三か月後の5月に、あるワークショップが水俣で開催された。
フランス人のダンサー、フィリップさんとジュリーさんによるアートプロジェクト「La danse du détour 廻り道のダンス in Minamata」である。

「水俣病を生きる人びと、ダンサー、学生、市民などさまざまな人たちが、さまざまな場で行われるワークショップやパフォーマンスを通して、交流を深めることを目的としています。一週間をかけて、私たちは、その場や時間を共有する人たちとともに、動きが変わっていくことを体感します。参加者はそれぞれが自分のダンスを踊り、創造する力を感じ、お互いの動きに共鳴しながら踊りを発展させて、パフォーマンスに作り上げていきます。その際に、自分の内面や、他者との関係性、環境との繋がり方に変化を感じるかもしれません。からだを使って、水俣のストーリーを辿り、場が持つ意味を踊り、試行錯誤しながらリハーサルを重ね、グループやデュオ、ソロのパートを完成に近づけていきます。ここでの振り付けの作業は、水俣の物語性と場所性を探求していく詩作のようなものです。そして、踊られるダンスは、水俣の記憶と場の物語を紡いでいく歌声なのです。最後に、私たちの創るダンスは、水俣病を生きる人びととそのご家族の勇気に対して、心からの敬意を表現するものでありたいと考えています。 ~ Phillippe Chéhère, Julie Salgues and the Mianamata Dance Collective」
※下記フェイスブックイベントページより引用
https://www.facebook.com/events/335444383841708/

メッセージの通り、乙女塚やチッソの旧工場、エコパークや水俣病資料館メモリアルなど、様々な場所でワークショップは開催された。
そこにはあらゆる人々が集い、それぞれの形で踊り、みずからを表現した。

足元を見据えながらも
チッソ旧工場でのワークショップの様子(※同上ページより)。

このプロジェクトを受け入れたのが、原田利恵さんだった。
利恵さんがインタビューの中で語られていたことが、形は異なれども、一つ実現したのではないだろうかと思う。
利恵さんがさらに、これから、どんなことを形にしていくのだろう。私の「ワクワク」は止まらない。

「急がずに、踊りながら行こう。
出会う場所や時間を舞い、
味わい、つながりを編み進もう。」
※同上ページより引用

それぞれの場所で。
私は、水俣で。

(高倉鼓子)