いつでも愛と、ユーモアを。

いつでも愛と、ユーモアを。

 

対面シリーズ……この特集は、僕たちの人生を僕たちの足で踏みしめて歩んでいくための基礎体力を得るべく、方々への対面を勝手に企画しているものです。

今回の語り手:
石原理絵(いしはら・りえ)さん:写真左

……4人の母。1964年生まれ、東京出身。91年、沖縄に移住し、2006年から東村高江に在住。愛称は「トディ」。高江移住後すぐに始まった米軍ヘリパッド移設問題で、国側の説明があまりにも稚拙で人をなめきっているので、憤慨して行動開始。40歳過ぎにして、とてつもない人生経験を積むことになる。現在、今帰仁村のカフェ『波羅蜜(ぱらみつ)』のスイーツ担当。見つめあい弾き語りユニット『ちすらぴりた』のボーカル&ウクレレ。フラも時々踊る。
石原岳(いしはら・たけし)さん:写真右
……1971年生まれ、神戸出身。演奏家。沖縄県の北部、米軍基地問題で揺れる東村高江に在住。『高江音楽祭』主宰であり、『ちすらぴりた』のボーカル&ギター。自身もギターとエフェクターを使って演奏します。2013年1月、2ndアルバム『発酵する世界』をリリース。
HP『発酵する世界』 http://hakko319.tumblr.com/

聞き手:高倉鼓子、高倉草児……ガイアみなまた職員

まえがきに代えて

去る8月26日、水俣の西念寺で『高江音楽祭 水俣篇』を催した。主催は石原岳さん。沖縄県の北部にある高江区の、住民だ。高江音楽祭は、彼が中心となって、高江のことを音楽を通して伝えるイベント。縁あって水俣での開催が実現した。当日は水俣内外に住む多くの人々が集ってくれた。この場を借りて、心より御礼申し上げたい。今回のインタビューは、音楽祭から一夜明け、その余韻が残る中で記録をしたものである。

高江については、米軍のヘリパッド建設問題でご存知の方も多いだろう。集落を取り囲むヘリパッド建設を阻止するため、住民らによる抗議の座り込みが2007年から続けられていた。しかしながら日本政府はその声を無視し、工事を強行した。2016年12月には、建設予定であった六つのヘリパッド全てが「完成した」とされ、日米両政府による祝賀会も開かれた。
私が石原岳、理絵(トディ)夫妻に初めて会ったのは、高江が混乱を極めていた2016年の秋。警察、機動隊、沖縄防衛局、工事関係者、ALSOK、沖縄県民、県外から来た人々・・・様々な人たちが、高江という小さい集落にいた。安倍昭恵さんも来た(笑)。
深い混迷と対立と暴力を目の当たりにして、「これが現代の日本か」と愕然とした。国家のためならば犠牲はやむを得ない、と、耳元で言われた気がした。水俣の教訓とは、いったい何だったのだろう。私はこの矛盾を、どうやって子どもたちに説明できるだろう。そして、ここに生きている人はどんな想いで暮らしているのだろうかと、悲しくなった。
落ち込む私を石原夫妻は、泡盛とおいしいトマトのスパゲティで温かくもてなしてくれた。思いがけず、ふたりは明るかった。話を聞いていくうちに、ふたりの発する言葉が、水俣で生きて闘ってきた人たちのそれと似ていることに気づき始めた。トディさんはこの問題に出会ったことを、「ギフト」と表現した。

ヘリパッドが完成してからも、高江への注目が辺野古に移ってしまってからも、ふたりは高江で暮らし続けている。彼らの人生にはヘリパッド問題が深く関わっているが、そのことに飲み込まれているわけではない。それだけが彼らの人生ではない。それが魅力なのだ、と思う。もがきながらも、意思を表明しながら走り続けている。
私はふたりのことが大好きだから、力になりたい。ふたりのことを多くの人に知ってもらいたい。そのような理由で今回の対面が実現した。
とても個人的な想いで記事にしているので、冷静になれなくて申し訳ないのだが、ふたりの言葉に触れた人が少しでも高江に想いを馳せてくれるならばうれしい。それだけです。

(高倉鼓子)

ギターのコードは知らないけれど

(8月27日、ガイアの事務所にて) ※以下敬称略

草児
育ってきた環境をお聞きしたいのですが・・・。
ふたりともサラリーマンの家庭だよね。
トディ
そう、似ているなあ、と思った。
父はサラリーマンだけど、母がちょっと変わり者で。音楽の先生やっていたり、家でピアノの先生だったりとか。それで、母は膠原病という病気だったんだけど・・・何度も三途の川を渡らずに帰って来たっていう人。彼女はクラシックの交友関係を使いながら、関東一円の福祉や養護関係の施設とか、学校とかをクラシックチームを率いて回って、ボランティアで音楽の喜びを伝える、みたいなことをやっていたんだよね。その頃から「ボランティアはね、タダじゃないんだから」って言って。準備や交通費やらかかってるから経費の分はちゃんとお金はもらう。でも本来このメンバーでギャラを取ったら大変な額になってしまうから、それはしない。だからボランティアなんだよ、みたいな話を聞いていた。
今考えると、母のやっていることが結局、俺が今やっていることと似ているなあと思う。やっぱり音楽を通して、いろんな人たちを引き連れて・・・「生きる喜びを共有しませんか?」ってことをやっているんだな、って。
草児
岳さんはギターのコードを知らない、と聞きました。
知らないんです。だから19歳でギターを始めたけど、好きな音楽を聴きながら、レコードに合わせて音を当てるっていう・・・1年間かけてブルーススケールをつなげたりとかね。それでギターが弾ける友達をひとり暮らしの家に呼んで「1年かけて俺はこれを開発したんだ」って言うと、「石原、それギターマガジンに載っているよ」「ウソ!?」って。
トディ
石原君は音楽を聴き過ぎて、もう自分で楽器をやろうっていう。
高校のときはとにかく音楽を聴いていた。音楽を聴いて絵を描いたり。
草児
トディさんは子ども時代、どう過ごされていたんですか?
トディ
親が転勤族だったので、小学1年生のときに東京。2年生のときに滋賀に行って、初めて田んぼに入った。都会育ちだったから、毎日ランドセルにビニールつけて、帰りは田んぼに入って虫を捕る、みたいな(笑)。楽しくてしょうがなくて。自然に親しむっていうのは、滋賀県がすごく大事な記憶として残っていて。
それでもきっちり1年でまた東京に戻って、半年後、今度はエチオピアに。父が3年間の赴任予定だったんだけど、エチオピアで革命が起きちゃって、政情が不安定になって・・・2年半で帰って来た。
草児
半ば強制的に、ここで帰らなくてはいけない、と。
その当時、エチオピアにはハイレ・セラシエっていう王様がいた。そのハイレ・セラシエが国連でスピーチしたときの内容をボブ・マーリーが歌にした『War』(*注①)というものがあって。すごく良いスピーチだったんだけど、やっぱり軍事クーデターで全部やられて。

*注①【War】 ・・・・・・ エチオピアの皇帝であったハイレ・セラシエ一世による国連総会での演説(1963年10月4日)をもとに、ボブ・マーリーが1976年に発表した歌。(本ブログの最後に歌詞を掲載しています。)

トディ
いろいろあったけど、そんなアフリカで、のびのびと育った。小学3年生だから向こうの環境には意外とサッと馴染んじゃって。むしろ帰って来てからの、日本に対するカルチャーギャップの方がキツいというか。エチオピアの学校にはいろんな国の人がいて、ざっくばらんで、大学みたいな感じで。日本はキチキチじゃないですか。何か苦手というか、息苦しくて。
あとやっぱり気候も全然違う。気持ちはもちろんだけど、体も向こうに慣れちゃっていて。日本はウェット、空気が重いというか・・・すごいベタベタして、ずっと苦しくて。しかも第二次性徴期で体の中も変化していく時期にそれで、低体温にもなってしまって。でも高校入ってやっと抜けた。それまではずっとキツくて。何だか、ドローッと長かった。
草児
トディさんは、音楽は・・・?
トディ
私は本当に聴くばっかり。聴くのはすごく好きで、何でも聴いて。
好きなものが案外似ている。「あ、これいいね」っていうのが。
トディ
ジャンルじゃないよね。石原くんが「こういうのはどう?」って勧めてくれたら「これはいいな~」って思って。案内人として優れた能力が、実は石原君にはあるんです。

「よ!トディ!」「・・・誰?」

草児
そんなふたりの出会いは、音楽を通じて?
トディ
いや、違います(笑)。
28年前の夏だよね、俺が19歳のとき。俺はひとり暮らしをしていて、映画とかロックとか、東京のその頃のサブカルシーンの流れにグーッと入っていくんだけど。そこで出会った人たちに、新宿の『ばるぼら』っていうバーみたいなところに連れて行かれたりしてね。トディもばるぼらに出入りしているお客さんだった。その飲み屋で飲んでいたら、「好きな音楽かけていいから」って言われて、『宝山』という新宿のとんかつ屋に誘われて、DJとしてバイトをしていたんだ。
トディ
仕事が終わって、宝山のカウンターでまずビールを飲んでからばるぼらに行くっていうルートが決まっていて。最初に見たとき、そこのカウンターで石原君が、19時前なのにもう酔い潰れていた。そのときはひと言も交わさなかったけど、半年後くらいに私が仕事を辞めちゃって・・・解放された~、みたいな感じで「久しぶり~」って宝山に行ったら、石原君が奥からエプロンして「よ!トディ!」とか言われて。私は「誰?」って返して。
草児
その頃もトディさんはトディさんだった・・・そういえば、どうして「トディ」って呼ばれるのでしょうか?
トディ
大学時代は奈良にいたんだけど、そのとき私にお酒の飲み方の指南をしてくれた飲み屋のマスターがいたの。それで夏休みに私が実家に帰っていて、すごく暑かったのでソファーでゴロゴロしていたら、母親に「何ですか!トドみたいに!」って怒られた。そのあと「トドって言われた!」って、そのマスターに言ったら「ぴったりやん。そうだ、お前はトドだ!」って言われて。でも「女の子にトドはひどいよな」って自分で反省したらしく、「じゃあトディということで」と(笑)。
草児
その呼び名が今でも続いているんですね(笑)。
トディ
だから大学のときはずっとそういうふうに呼ばれちゃってて、それでその頃の知り合いの流れからばるぼらにも行っちゃったから、新宿でも「トディ」になった。だから石原君も「トディ!」って言っていて。
草児
その・・・沖縄には、出会ってからすぐ行かれたんですか?
トディ
確か7月くらいから一緒に遊び始めて、次の年の1月にはもう沖縄に来ちゃった・・・短いね、意外と。初めての沖縄だったから、どうせなら1ヶ月くらいは、って思ってバイトも辞めて。「じゃあ行ってきます」って言って、それっきり(笑)。
草児
短期間のつもりが、転々としながら今、なんですね。沖縄に残った理由は・・・?
トディ
東京はすごい寒くて、手袋をして毛糸の帽子を被っていたのに・・・1月7日、初めて沖縄に着いたら27度あって、すごく暖かい。バァーッとその空気を浴びた途端に、「帰る理由がないな」って思った。

アイデンティティを奪うには、言葉を奪えばいいんだ

やっぱり沖縄が、良かったからなあ。それとやっぱりトディがいたから。ただ、今よりも沖縄は外国だった、というより日本じゃなかった。喋る言葉が違うし、雰囲気が全然。
トディ
国際通りですら、まだ異国な雰囲気があったよね。
俺らが入った90年代はまだそういう・・・今よりもっと沖縄戦が近い、地続きな感覚があった。年下の連中でも、子どものときに銃弾をペンチで挟んで、金槌でケツを叩くとパンって飛んでいく遊びをやっていたり。
トディ
30年くらい感覚が違うというか。友達が子どもの頃、宅地用に整地しているところに、ゴミが入ってるようなドラム缶が置いてあって、小学生だと中が見えないから「何入ってんのかなー」って棒つっこんだら「あ、何か引っかかった!」って引っ張ったら髑髏(どくろ)で、みんなで全力で逃げたっていう話とか、沖縄に来た当時そんな話をいっぱい聞いた。
霊感があるとかじゃなしに、すごく、空気が今よりも重くて。比べるものがないから、当時は別に何も思わなかったけど・・・『平和の礎(いしじ)』(*注②)ができてから、空気が変わった気がする。

*注②【平和の礎】 ・・・・・・ ―「平和の礎」は、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業の一環として、国籍を問わず、また、軍人、民間人の別なく、全ての戦没者の氏名を刻んで、永久に残すため、平成7年(1995年)6月に建設したものです。その趣旨は、沖縄戦などでなくなられた全ての戦没者を追悼し、恒久平和の希求と悲惨な戦争の教訓を正しく継承するとともに、平和学習の拠点とするためです。― 
(2018年11月現在、『県営平和祈念公園』 ウェブサイトより転載 
URL http://kouen.heiwa-irei-okinawa.jp/shisetsu-ishigi.html

沖縄のテレビが変わってからも雰囲気がガラリと変わったと思う。それまでは、見るものといえばNHKか、沖縄テレビか、琉球放送の三択なわけですよ。そこに琉球朝日放送や衛星放送なんかが入ってきて。そうすると内地のドラマやバラエティ番組っていうものをたくさん見られるようになって、それから若い人たちの言葉が変わったと思う。
草児
もともと沖縄が持っていた言葉ではなくなった?
例えば居酒屋に行って、隣の若い人たちが喋っている言葉が違っていたりする。「とても美味しいなあ」って、沖縄では「でーじうまい」とか「しにうまい」って言う。そこに「めっちゃ」が入った。それは関西弁なんです。テレビが変わって、それから文化が変わっていった。沖縄っぽい感じのものが、どんどん内地ナイズドされていった。俺らはちょうどその変遷のときにいたのかな、って思う。言葉がどんどん剥奪されていくっていうのは、文化とかやり取り、街が変わっていくことなんだ、と。アイデンティティを奪うには言葉を、そういうものを奪えばいいんだ。
 俺の場合は沖縄で建築業をやっていたから・・・建築業っていうのは、本当にもう100%うちなーで。仕事が進まないとダメだから、向こうも標準語で喋ってくれているつもりだけど、俺にはわからない。本当に1から10まで言葉がわからない中で、この言葉の意味は?この言葉の意味は?って、1個ずつ習得していった。それで、いろんなことがわかるようになったので、俺は沖縄の言葉に執着があるというか・・・すごく好きなんだよね。でも今の子どもたちの世代になっていくと、言葉がだんだん変容していく。その様を見ていて、「おっと、寂しいぞー」とか思うけど、そういう流れは止められない。
草児
僕らは逆に若い世代で、水俣周りの方言がわからなくなっているところがあります。言葉の違いは景色や起こっていることの把握の仕方、また行動の違いにもつながっていて、僕ら自身はそれが悔しかったりする。
言葉って相手がいて成立するものだから、どうしても仕方がない。守るのは難しいよね。
鼓子
「煩悩の深か」って、おばあちゃんたちが言うんです。悪い意味ではなくて、煩悩を「愛情」の意味で使っているんですね。愛情が深いっていうことを、普段の生活の中で私は言ったりしないけれど・・・。
トディ
素敵ね~。
ちゃんと大事な言葉があったりするんだよね。
鼓子
沖縄もそういうのがいっぱいあるんだろうなって、思います。
結局、言葉を知るということが人間の気質を知ることにつながるというか・・・沖縄は郷土愛が強いんだけど、でも、あれっ?て思ったりするのもある。沖縄の人たちは「沖縄の人間はこういうところが良くて、やっぱり沖縄は守っていかないとダメだ」って言うわりには、基地問題に関しては無反応だったり。もちろんそれは、いろんな理由や歴史があるわけだけど。

見ていてくれる人がいるから

草児
そういう話は切り込んでされるんですか?
相手による。高江に2006年に移り住んで、最初は「これ、おかしくないか」みたいな話をしていたけど。友達の店とかに飲みに行くと「岳、反米運動やっているんだって?」って言われて話をする。すると「岳、いろいろあるんじゃないか。政治的なことをお前はわかっていないんじゃないか?」みたいな。以前から一緒にお酒飲んでワイワイやっていたような連中と、そういう話になるのよ。そんなお酒、美味しくないでしょう。相手に伝わりもしないし、むしろ誤解が増える。だから、あまり自分からそういう話をすることはなくなった。
でも、いつ頃かな・・・高江のことが新聞に載ったり、インタビューされてニュースに出るようになってからかもしれない。友達のバーに飲みに行ったときに、けっこう全てをクールに見る沖縄の先輩がいて、他の人は何も言わないんだけど、「石原、お前頑張っているよな」ってその先輩が言って・・・。
トディ
ちょっと泣いちゃうよね。
鼓子
見ていてくれる人がいる。
どこで何を見たか知らないけど、そういうふうに見る人もいるんだなって思った。だから相手によっては喋ろうかなって・・・。
その頃から、みんなの当たり方が、若干変わってきた。「何か岳、最近活動家らしいぜ」みたいなところが、「あ、違うぞ」「ナイチャーだけど、あいつ沖縄のこと考えてやっているなあ」って。だから俺が声かけして、例えば高江音楽祭とか、那覇で高江のパレードやるんだけどって言うと、「何かやることあるんだったら言ってくれよ」「バンド?やるやる」みたいな。声をかけると、ちゃんと反応があるようになった。今までなら無理だったろうな。
トディ
5年以上はかかったよね。
まあ、もっとかかった。

逆張りで発信する

鼓子
私が最初に高江に行くきっかけの一つに、ふたりが座り込みの現場ですごい笑顔で写真を撮ってツイッターにアップしているのを見たことがあって。こんな発信の仕方があるのか!と思いました。
笑顔キャンペーン、していたよね。
鼓子
何もわかっていないのに、同じことを私もしたいと思って・・・初めて高江に座り込みに行ったときに『住民の会』(*注③)の旗が立っているテントで「一緒に写真を撮ってください」って言ったら「何言ってんの」っていう感じで。その後もよくわからずに過ごして、テントを仕切っている方に「石原さんの投稿を見て来て」って言ったら、「あ~、ギター弾いている兄ちゃんね」みたいな言い方をしていたから、違和感というか「どういうこと!?」と思って・・・。

*注③【住民の会】 ・・・・・・ 「ヘリパッドいらない」住民の会のこと。住民の会や高江のことについてもっと知りたい方は、下記URLのウェブサイトをご覧ください。
★『やんばる東村 高江の現状』 https://takae.ti-da.net

2016年の夏、高江にて。「笑える状況ではないが、だからこそ笑おう」という岳さんのツイートに対して、私(鼓子)なりの意思表明。
「石原?現場に来ない奴らだろ」、みたいなね。ネットで高江のことを発信し始めたのは俺なんだけど・・・正しいことを、ただ伝えているだけでいいわけじゃないんだよ。目的は伝えて、そして変えることだから。目的のために自分が何かの道化とかキャラになってやることも、当然出てくる。「闘いの最前線だから、怖そう」「行かない」「聞かない」という人たちに届けなきゃ。だからフェイスブックとかで家族の写真を載せ、運動会の写真を載せ、一緒にご飯を食べているときの写真を載せるわけです。「俺たちは家族だ」「あなたたちと同じだ」ということを、リスクを承知の上で伝える。
鼓子
そうですね、個人情報が・・・。
そう。で、子どもたちが家から独立していなくなると、今度は自分たちをネタにしていく。「トディと俺はラブラブですけど!」っていう。「何だこいつら、ノロケか!」って言われるところを、発信していく。人が思うところの逆張りで行きながらも、そこに説得力を持たせなきゃいけない。みんな怒りのメッセージしか出していないところに必要なものは何?それは愛とユーモアじゃないの?ということで、じゃあ(2016年、様々な人々が高江に押し寄せて現場が混沌としていた)この状況で、笑顔の写真を撮ってください、というキャンペーンを張ったんだよね。最初はやっぱり、日本全国から「はあ!?」っていうコメントが舞い込んで・・・。
草児
論客たちが「オカズだー!」みたいな。
俺は出稼ぎで東京に出ているから「岳くん、現場そんな状況じゃないよ」って、コメントで言われる。でも「どんな状況で、あんたたちがどんな気持ちになっているかも、全部わかる。だから必要なんだよ」って返して。

誰のための運動なのか

トディ
でもね、何人か、わざわざ家族でとか一緒に写真撮ってくれたよね。
あのあたりから、怒りのメッセージだけじゃないっていうのは伝わったと思う。ちゃんと説明をしたしね。「警察や国の暴力で、僕たちの愛情とか家族とか、笑顔が奪われていいんですか?」「そんなことでは奪われないよ、という意思表明じゃないですか?それをしましょう」と言った。ふざけていると思われるけど、大真面目なんだよ。
でもトディも俺もね・・・。現場に人が増えていくと、何かしら問題が出てくる。それで、こういうのはちゃんとしないと高江区としてはまずいよ、とか、運動関係の幟(のぼり)とかいっぱいあると、住んでいる人たちは通りづらくなるし、とかね。そういうことを言うと、どんどん嫌われていくんだな、これが(笑)。
鼓子
「運動の邪魔をするのか」っていうことですよね。でも、誰のための運動だ?っていう話ですよね。
トディ
今「誰のための?」って言ったけど、でも、これは別に住民だけのための運動ではない。
みんな、平和のための闘いなんですよね。
鼓子
もっと大きなもののために・・・「じゃあ何?」って思いませんか?
トディ
石原君が「高江だけの問題じゃないんです!全国の問題なんです」と言った後で、私たちが「高江区的にこういうことがあると、住んでいる人が困るから」って言うと「いやこれは、高江区だけの問題じゃないんです!」って、同じロジックで言われるわけ(笑)。「全体の問題だから、そんなことを気にするなんておかしい」と。アレ?みたいな・・・。
だから俺の発信していることは、強ければ強いほど諸刃の剣。もうそれはわかって言っているんだけど。「その通りなんだけどさー」みたいな。ゔーん!

ロックのクエスチョンが、ひとつ解けた

草児
人がたくさん来るようになってから、『座り込み三か条』を作られたんですね。
トディ
あれは、高江のお母さんたちが集まって作ったんだよね。他にも、10号くらいで終わっちゃったけど『新月新聞』っていう、お母さんたちだけのフリーペーパーを季刊で作っていて。せっかく来てくれた人と「高江ってこういうところなんですよ」ってゆっくり話をしたい気持ちはあるけれど、こっちは子どもが小さい家庭も多くてそんなに座り込みのテントにいることができない。だから「私たちは、こういう生活を高江でしているんですよ」「こんなことを思っているんですよ」というのを書いて、来た人にあげるということをした。
やっぱり「ここは現場だ!」と思って来ちゃう人が、けっこういて。荒れ狂っているときに来ると、ますます現場感しかない。そこの行き帰りだけだと、「ここで暮らしている人がいるんですよ」っていうところに思いを馳せにくい。それに、あまりにも警察や機動隊なんかが高圧的だと、敵味方みたいな感情に行ってしまいがちというか。でも「それでみんなでワー!ってしたいとか、そういうことではないんです」と言いたくて。
座り込み三か条は、『N4』っていう高江集落に一番近いヘリパッドが二つ完成してしまったとき、現場でいろいろあって。座り込みを続けるにあたって、座り込みに来てくださる人に周知してもらいたいことをシンプルに三つにまとめて、コピーしてテントに来る人に渡して。小さな看板も作った。まさかそのあと高江があんなに大騒ぎになって、この三か条がこんなに大事になるとは思わなかった。
高江のテントにある『座り込み三か条』の看板。
一番は「言葉も含めて私たちは非暴力である」ということ。どこまでが非暴力なのかということの線引きが、人によって全然違う。機動隊に向かって「家に帰って家族の顔が見れるのか!」とか、散々なことを言うんだけど。俺も言っていたことあるけどね、「もうやめましょう、それ」「言葉も暴力のうちだよ」って。
第二が「私たちは自分の意思で座っているんだ、誰からも強制されていないんだ」。というのは、「ゲート前に座ってください、相手に抗議してください」とか指示されるかもしれないけど、やりたくないことはしなくていい、っていうかしちゃだめ、っていう。自らの防衛手段としてね。自分で判断して、納得したことをやってください、ということ。
三番目が「いつでも愛とユーモアを」。これはいつでも愛とユーモアがなくなっちゃうから、必要だよっていう。必ず迷うし、ワーッてなったときに、怒りに全てを持って行かれる。怒りが悪いというわけではないけれど、怒りと憎悪に完全に支配されてしまいがちだから。ここに座標として書いて置いときますね、というものだなと思っている。
トディ
現場はいつもいる人が全体を見ているけど・・・何をした方がいいっていうのも、いろいろ意見が分かれるところだし。私たちみたいにそんなに毎日行けないと、住んでいるけどあまり発言権がなくなっていく、というのがあって。仕方がないことでもあるんですが。
草児
それは直接的に「お前ら毎日来てないじゃないか」とかって言われることが・・・。
トディ
私も仕事をしていて、終わってから車飛ばしても18時前とかしか現場に着けない。でも着いたら、「今頃何しに来た?」みたいな、「すごい居心地悪いな~」という感じに、どうしても、なっちゃう。気持ちはわかるけど・・・。私たちができないところまでやってくださるから、ものすごく感謝していて敬意を払っているつもりだけど、やっぱり気持ちがずれていっちゃう。
まあね、でも言いたいことも言っているからだよ。
トディ
私も意見はあって、「じゃあどうしたら、私がすごくみなさんに敬意を持っていて、一緒にうまくやっていきたいっていう気持ちが通じるんですか」と聞けば「毎日来ればいい」って言うわけ。「いや、それはできない」って、そこを永遠に・・・。
草児
この質問をすること自体、申し訳ないと思うんですが・・・辛くないですか?
トディ
・・・本当にね、きついよ~。
そうね~・・・何のためにやっているのかね・・・。
トディ
限られた人数の中でさえも、敵を作ってまとまるというか。「何それ?人間の本能ですか」みたいな、そういうこともあったりして。身に覚えのないことですごいバッシングされていて、それでもう「いいや、ひとりでやろう」みたいな感じになって。
トディ
そうね、トディもバッシングされ、俺もバッシングされ・・・。
トディ
何か石原君とセットにされちゃって。全然違うのに、石原君と私が同じ考えで動いているっていうふうに・・・「いや全然違うんだけど。一緒にするのはやめてください」みたいな(笑)。だって、私は私であるのにね。人権とか、人間の尊厳を守るためにあるはずの運動の場で個人を尊重しないっていうか。「石原岳の嫁」っていう付属品みたいな感じで扱われること、それはセクハラだよね。そういう、女性であるっていうことだけで尊厳を削られるとか、全く許せないよね。
現場で身を削ってやってくださっている方と共にやっていくからこそ、大きく動かせるというか、解決の一歩になると思っていたから・・・本当に一緒にやっていきたいと思って、かなり頑張ったつもりなんだけど。言えば言うほど、やればやるほど理解から遠のいていく。これはちょっとダメだな、と。私の体力と気力が無駄になりすぎて、私が可哀想だと思って。切り替えて、個人的にできることを・・・。
草児
僕がおふたりのような状態だったら、そう言われたら「もういいよ!帰るわ!」ってなっちゃう。想いがあるのに続けられない、途中で諦めたくなっちゃうんですよね。だけども今、おふたりはそうじゃない。高江には住むし、その上で運動と言われるならば運動と呼ばれるものを続けていく。それは形としては、今は音楽祭というものであると・・・。
でも俺がやっているのは、運動でも活動でもなく、人が自分の好きなことやっていると必ずぶち当たるものをやっているだけで。高江という、たまたますごいエッジの効いたところであったがゆえに、人から見るとより活動、運動っぽかったりするのかもしれないけど。でも俺はそうじゃなくても、音楽祭をやっていたと思う。こういう形じゃなくとも、人と人とをつなげようということになったと思うんだよね。高江に来る前からもフェスをやっていたから。
高江に行って俺は、自分の中でロックのクエスチョンのひとつが解けたと思っているんだけど。何でボブ・マーリーがわざわざ政治家をステージに上げて握手させたりとか、ジョン・レノンがデモのための歌を作んなきゃいけないの?あれだけのスターだったらもう、ただ歌っているだけでいいじゃん。だけど、そうじゃないことをやり始めるわけだ。半分はわかるよ。反体制とか、自由を守るんだっていう使命というか・・・。ロックの持っている「何か」があるじゃない?でも、そこまでやらなきゃいけない?っていう。もう半分はハテナだった。それが高江に来たら、特別なことではなくて、自分に降りかかってきたら、自分はこういう仕事をやっていてこういう影響力を持っているから、それを使ってこういうことをやるっていうだけなんだなって。
ただやっぱり、そのポジションにいないとわからない場合も多いから、俺にはできない、と思っちゃうかもしれない。でもそういう人たちも、そのポジションにザッて立ってみたら、「あ、こっちかこっちかしかないんだ。じゃあこっちを選ぶしかないんだ」っていって、やるかもしれない。たまたまそこに立った人たちがやったんだなっていう。だから何と言うのかな・・・あまり特別なことじゃないんですよ。
草児
僕らの場合で言えば、水俣病のことを甘夏みかんに託しているんです。だから形は本当に違う。ベクトルは大体同じかもしれないけれども、親父たちのやってきたこととも、厳密に言うと違う。大多数は淘汰されてしまうかもしれないけど、みんないろんなことやっているから、そのうちの一つくらいは残るんじゃないかという感覚でやっている。でも僕らが甘夏を絶やしてしまうと、僕らのやっていることというか、先輩たちがやってきたことっていうのは確実に一つ消えると思っていて、その一点においてまだ退けないんです。多分岳さんにとっての高江音楽祭は・・・。
まあ沖縄にはいろんな先達がいて、いろんなことをやってきていて。俺のことは俺が始めて俺が終わらせて。それで誰かがまた他のことをやるわけですよ。ネットのこともずっとやってきた。もうすでに、ネットだけじゃ無理だっていうことも伝わっている。もうバトンは渡って、走り始めているの。俺がバトンを落としても、「もういい」ってサジを投げても、走る奴はもう走っているから。それはいいの。だから甘夏とちょっと違うと思う。甘夏は美味しいもんね。
一同
(笑)。

きちんとしてなくていいんです

高江音楽祭は、今までは最後は遠藤ミチロウさんや七尾旅人みたいな演奏家にしめてもらうというふうにしていたけど、今はそれを必要としない。俺とトディが唄うから。いろんな人にやってもらって、どんなにつたなくても、最終的に俺たちが主催の責任として回収します。今はそれができるから、いいかなって。だから、どこぞの街で生きているあなたと同じように、石原岳というひとりの人間、そしてトディ、石原理絵というひとりの人間が高江に生きていて、そしてあなたに何かを手渡そうとしているんですっていうことを、浮かび上がらせるために、これでいいんです。きちんとしてなくていいんです。できないし。
トディ
できないね~(笑)。
これははっきり言って、高江音楽祭だから成立する。たとえばフジロックみたいな音楽イベントとかにポンって入れられたら「何しに来たんだこいつらは!」っていうことになっちゃうから。オリジナル曲もなければ間違ってばっかりで。
草児
文脈というか、それは岳さんが意識的に作り上げてきた「こういう方向で俺らは伝えて行くんだ」という流れの中で機能する。
機能する。だからつたなくても失敗だらけでも、誰かに言わせるんじゃなく・・・遠藤ミチロウさんに託すんじゃなく、彼らに出てもらった最後に、「今日はこういうことで集まってもらってありがとう」っていうことを、僕らが演奏することによって完結させる。これが大事。

ステージ上でのふたり。お互いの目を見つめあい、ときにコードを間違えてははにかみあいながら演奏を続ける姿が印象的だ。
草児
その全てが生き様だと思います。だから、感銘を受ける。正直言って会うまでは「この人らは何なんだ」という思いが僕の中にはあったんです。伝え聞いているだけだから。だけど今日、直接話して、昨日演奏を聴いた、酒も飲んだとなると、一気に僕にとっては距離が近くなる。まあ、物理的には遠いところにあるんですけど。
それぐらいの目が必要なんです。何でもかんでもパッと信用するんじゃなくて、俺は自分で食って味見しないと判断はしないっていう、その姿勢がとても大事だと思う。俺もそうだから。「高江のことをやっているからあの人たちはいい人だ」っていうのは、気味が悪いからね。
草児
それは場所を変えてもそうですね。やっぱり濃淡があるし、大小がある。現地に入っていても見えないこともありますし・・・。

もし終わったとしても

続けなきゃいけないものもあるけど、そのチームの続け方っていうのは・・・ハンドルを握っている人間を変えるとか、そういうことを定期的にきっちりやっていかないと、ダメになる。続けていくんだったら、もう変容させていかないと。
トディ
あらゆる組織が3年とか5年に一回、解散を前提にして「本気でまだ続ける?」「これからどうやっていく?」っていうのを全員で話し合うのがいいと思う。状況も変わるし。それで「そうだね」っていう気持ちにならなければもう解散する、くらいの気持ちでやっていかないと。続けるために、本来の目的と違う方向に歪んでいくとか・・・。
そうだね。変容っていうのはそういう意味じゃないね。
草児
終わってしまうこと、変容するということは、批判を受けがちじゃないですか。
鼓子
そうですよね、マイナスイメージ。
草児
でも続けることとやめることって、反対のことではない。僕、このテーマについて、ちょっと時宜を得ていて。「やめるから続けられるものもある」というような文章を、最近目にしたところなんですよ。
高江音楽祭は、あのね・・・次はないと思いながらやっている。「これが最後か~、ちょっとしょぼい感じだなあ」とか思いながら。またやるかもしれないけれど、とにかくちゃんとした責任の取れるモチベーションがないのに、続けることはない。手を貸してくれた人たちに失礼だから、それはやらない。水俣篇はちゃんとした目的があって、意味があるからやる。明快なんだ。
トディ
一回一回だね、いつもね。だからこの先・・・実際にやるかどうかわからないし。
まあ、高江を出るかもしれないし。俺は高江のことは大好きだけど、どうなんだろうな・・・ある意味コミュニティが崩壊しちゃったから、いても本当に苦しいから。もういいかな、と思っている。
トディ
そうなんだね。私は今帰仁(なきじん)村っていう、高江から車で50分ぐらいのところで、念願の飲食業に就いて4月から働き始めていて。生活のメインがほぼ今帰仁にあるから、「引っ越すんじゃないの?」とか言われたりするんだけど、全くその気はなくて。高江に帰るとやっぱり森の空気が全然違う。帰ってきた時間にはまだヘリが飛んだりすることもあるんだけど、やっぱり空気感が・・・空気の質ってこんなに生き物っていうか人にとって大事なんだなっていうのが、ひしひしと・・・今帰仁で寝るのと高江で寝るのとでは、寝ている質が全然違うというか。いいところなんですよ、森があるだけなんですけど。今帰仁だってけっこう田舎ですけど、森ではないからね。まだ私は住んでいたいなあと思っている。
でもまあ、そこは全然流動的に。強く変にこだわって、無理して住むのも違うと思うし。絶対私は高江にいるんだ!っていうのも、それは何か違うなって思うから。
『波羅蜜』では、季節の素材を使ったスイーツを食べることができる。このときはマンゴーのタルトだった。
石原家の近くにある新川川(あらかわがわ)。子どもたちの遊び場でもあり、火照った頭や身体を冷ましてくれる場でもある。
草児
仮に動いたとしても、動かなくても、誰からも何も言われる筋合いはないですよね。
トディ
筋合いはないね、全くないね。どっちでも言われそうだけどね。あはははは(笑)。

(終わり)

インタビュー収録後、ガイアの事務所前にて撮影。笑顔が輝いて見えるという表現が言い過ぎではないほどの、まぶしい笑顔。

あとがきに代えて

僕が沖縄へ行ったのは中学校の修学旅行と、大学で好きな人にフラれた後の、たった二回。当たり前のことですが、沖縄は行事の対象や感傷の寄せどころとしてのみ、都合の良いように存在しているわけではありません。そこには僕らと同じ人間が、家族が生きていて、それぞれの思うことを思い、今まさに行動をしている。そんな当たり前の事実に、改めて気づかされた今回の対面でした。
何かを選び取るということは、何かを見逃すことと同義と思っています。どんなに立派な行動であっても、必ずそれはついて回る。であればこそ、僕たちは見逃してしまった「何か」に意識を寄せる必要があるし、死角を補うためには話し合う場を設けた方がよい。でも、見逃してしまったそれが「愛」とか「ユーモア」であったとしたら、そのとき果たして僕たちは、話し合う場を設けるという選択肢を思いつくことができるだろうか?そう考えると、ちょっとだけ背中が寒くなります。
神は細部に宿るといいますか、今回も多くの言葉に刺激され、未だ頭の中が整理できません。できるだけその人たちの輪郭を際立たせようと思って編集していますが、なかなか思うようにいかず、ただ文字数の制限だけはインターネットという技術で多少なりともクリアできますので、今回からガイアのウェブサイトにはちょっと長めのヴァージョンを掲載しています。紙面で省いた岳さんとトディさんの輪郭を、ウェブの記事から少しでも感じてくだされば嬉しいです。

(高倉草児)

*注①Warの歌詞について・・・全文をここに転載します。カッコ内は和訳。
(2018年11月現在、『華氏65度の冬』 ウェブサイトより転載 
URL http://nagi1995.hatenablog.com/entry/356

Until the philosophy which hold one race superior
And another
Inferior
Is finally
And permanently
Discredited
And abandoned –
Everywhere is war –
Me say war.
(ある人種は優れており
ある人種は劣っているという思想が
最終的に
そして永久に
正しいものではないと認められるまで
そして放棄されるまで
至るところは戦争だ。
私は戦争を叫ぶ。)

That until there no longer
First class and second class citizens of any nation
Until the colour of a man’s skin
Is of no more significance than the colour of his eyes –
Me say war.
(あらゆる国で
一級市民や二級市民といった
差別がなくなるまで
人間の肌の色が
その目の色と同じような重要性しか
持たないようになるまで
私は戦争を叫ぶ。)

That until the basic human rights
Are equally guaranteed to all,
Without regard to race –
Dis a war.
(基本的人権というものが
人種の区別なく
すべての人に平等に
認められるようになるまで
これは戦争なんだ。)

That until that day
The dream of lasting peace,
World citizenship
Rule of international morality
Will remain in but a fleeting illusion to be pursued,
But never attained –
Now everywhere is war – war.
(終わらない平和や
世界的な公民権や
国境をこえた倫理にもとづく統治が
追い求められるべきつかの間の幻想や
実現しないこととしてではなく
とどまり続ける日が来るまで
至る所は戦争だ。
戦争だ。)

And until the ignoble and unhappy regimes
that hold our brothers in Angola,
In Mozambique,
South Africa
Sub-human bondage
Have been toppled,
Utterly destroyed –
Well, everywhere is war –
Me say war.
(アンゴラやモザンビークや
南アフリカで
我々の同胞を縛りつけている
恥ずべき不幸な体制が
非人間的な抑圧が
ひっくり返されて
完全に破壊されるまで
そう
至る所は戦争だ。
私は戦争を叫ぶ。)

War in the east,
War in the west,
War up north,
War down south –
War – war –
Rumours of war.
And until that day,
The African continent
Will not know peace,
We Africans will fight – we find it necessary –
And we know we shall win
As we are confident
In the victory
Of good over evil –
(東で戦争
西で戦争
北の戦争
南の戦争
戦争 戦争
戦争の噂
そしてその日までアフリカ大陸が
平和を知ることはないだろう。
我々アフリカ人は戦う。
それは必要なことなんだ。
そして我々は必ず勝利する。
善が邪悪に打ち勝つことを
我々は確信している。)

Good over evil, yeah!
Good over evil –
Good over evil, yeah!
Good over evil –
Good over evil, yeah!
(善は邪悪に打ち勝つ。
そうだ。
善は邪悪に打ち勝つ。)