記憶する、記録する、次につなぐ。

 

対面シリーズ……この特集は、僕たちの人生を僕たちの足で踏みしめて歩んでいくための基礎体力を得るべく、方々への対面を勝手に企画しているものです。

今回の語り手:小森はるか(こもり・はるか)さん
……1989年静岡県生まれ。映像作家。2011年3月11日の東北大震災後、ボランティアとして東北沿岸地域を訪れたことをきっかけに、画家で作家の瀬尾夏美とともにアートユニット「小森はるか+瀬尾夏美」としての活動を開始。翌2012年には岩手県陸前高田市に拠点を移して現地の風景、人びとを撮り続け、この記録をもとにドキュメンタリー映画『息の跡』を制作した。現在は仙台に拠点を移し、東北で活動する仲間とともに、記録を受け渡すための表現をつくる組織「一般社団法人NOOK」を展開中。

聞き手:高倉鼓子、高倉草児……ガイアみなまた職員

まえがきに代えて

水俣で『息の跡』の上映会をやりたいと思ったのは、今年の5月。新潟水俣病被害者の追悼集会に出席したことが、きっかけだった。私は初めて参加したのだが、未だにあの雰囲気が忘れられない。
追悼集会と聞いていたから、黒い服を着た方がいいのか?と一瞬思ったが、もんぺで行って正解だった。全国各地からぞろぞろと、思い思いの服装で人々が集まってくる。会場は小さいけれど、地元の人の愛着が伝わってくる、安田公民館。狭い集会場で隣の人とくっつくようにして、『阿賀に生きる』を観た。視聴覚障がい者向けの音声ガイドもあり、私の隣には盲導犬が寝そべっていた。上映はプロの技師によるもの。音響もこだわっている。最初にプリントをした貴重な「ゼロ号フィルム」を観させてもらった。『阿賀に生きる』を観たのは三度目だったけれど、今まででいちばん良かったと、しみじみ思った。この空間は一回限りのものだ。
その一回限りの空間で、小森はるか監督と出会った。上映後の対談で彼女の言葉に触れ、彼女の見ている世界をもっと知りたい、そして広めたいと思った。なので、その日のうちに『息の跡』水俣上映を直接お願いした。小森さんは「また水俣に行きたいと思っていた」と言ってくれた。
さて9月9日に晴れて行われた水俣での上映会は、たくさんの人の想いが込められた、素晴らしいものとなった(黒字でした!)。水俣上映限定、この映画の主人公・佐藤貞一さんによる特別映像も、爆笑の連続だった。上映後も口々に感想を言い合う。おしゃべりは尽きない。映画を観るという個人的な行為から、映画を共有するという空間の広がり。
楽しみは、自分で作り出すことができると知った。
今回の対談は、その自主上映の際に小森さんを水俣にお呼びし、タイトなスケジュールの合間に無理やりぶち込んだものである(小森さんごめんなさい)。私たちは「旬」をつかみ損ねたくなかったのだ。
(高倉鼓子)

演出って、何なんだろう

(2017年9月9日、鹿児島空港からガイアみなまたへ向かう車中にて) ※以下敬称略

――
何かを記録するとか、撮りたいという明確な意思は昔からあったのですか?
小森
全然なかったです。ただ、自分の祖父母が住んでいる地域を舞台にして何かをつくりたい、っていう思いはずっとあったんですよ。暮らし方とか、地域の在り方がすごい好きだったので。学生時代に実際撮っていたんですが、フィクションというか、そこで物語を書いて撮って、っていうのをやっていて。
でも自分が何かしようとすればするほど、色んなものが魅力的じゃなくなっていくような気がして・・・役者さんにしても風景にしても「そこにそのまま在るものの方が美しいじゃん」とか。「演出って何なんだろう」って思ってきちゃって。
――
偶発性を重んじるというか。
小森
ちょうどそういうことを思っていたときに、震災があった。そこで初めて、カメラを持っているということが、記録する者として地域と関わる方法のひとつなんだろうな、ということに気づいた。
――
震災ボランティアに行こうと思ったのは、だいぶ経ってから?
小森
わりと、私たちからしたら早かったんじゃないかな。画家の瀬尾さんと一緒に、最初は岩手とか宮城とかに行くのではなくて、もっと身近な場所でやろうくらいのつもりで、茨城に行きました。それが震災から三週間後くらい。茨城に実際行ったら、地元の人たちがもうボランティアをしていた。それで、確かにそこも大変だったけど「もし君たちが北に行けるなら、そっちの方が大変だから手伝ってあげて」と言われて。
じゃあ行けるところは全部見ようと、青森から始めて岩手や宮城の沿岸部をボランティアしながら回ったんですよね。でも力仕事がそのときは重要だったから、行っても結局役に立たなくて・・・。
――
専門家の方とかいますからね。
小森
私たちは周りでピヨピヨしているしかない。そのお宅の人と話をしたりとか、そのくらいしか。
――
でも聞いた者の責任というか、話を聞くのも大変な作業だと思います。
小森
なので、力仕事をガッツリというよりは、いろんな市町村ごとに被災状況もボランティアセンターの状況も違ったので、そのことを情報発信しようとブログを始めたんです。

おばあさんとの出会い

――
点と点を線でつなぐ作業ですね。ただ、記録役に徹するっていうのも難しいのかな、と。本当は最前線に立って瓦礫の除去とか、もっと役に立てることがあるのではないかって、迷いながらだったのではないでしょうか?
小森
そうですね、ずっとその気持ちはあって・・・あったんですけど、ある避難所におばあさんがいて、その人が「あんたたち、美大生なの?美大生だったらカメラとか持ってるの?」って聞いてくれたんですよ。それで「持ってます」って言って。実はそれまで、カメラは持って行ってたけど一枚も撮っていなくて・・・取り出せなかった。
でもそのおばあさん、自分の故郷がすごく壊滅してしまったって聞いているけど、どうなっているか何の情報も入ってこない。自分で行ってみたいけど行く方法もないし、気持ちの上でも壊れた風景を見れないかもしれない。「だから代わりに行って撮ってきてくれませんか?」って言われたんです。そのときに「あぁ、それをやればいいのか」って。
――
それは「出会い」ですね。
小森
「それがあなたたちの役割でしょ」って、おばあさんに教えてもらったというか。それでもう一回青森に戻って、誰かの代わりに見て記録しておくっていうことを始めたんですよね。
――
被災者に対して悪いという思いもあって、写真を撮れなかった?
小森
報道の人もたくさんいたし、カメラを向けられてすごい嫌な顔している人たちをいっぱい見ていて。それで人にレンズを向けたくないなという思いはあって・・・でもいつか誰かが見たいものがあるかもしれない、という思いもあった。
だから自分たちがっていうよりは、代わりに見るということだったらやれるな、と。そこはすごいターニングポイントだったな、と思います。本当に。
――
撮る、撮らないの境界って難しいと思います。誰かに届けるために、という目的があったから、その「誰か」というのが明確にあったから、記録をすることができたのでしょうか?
小森
いや、それはなかったですね。明確に「誰か」というのはないんですけど、でもやっぱり皆さん、完全なよそ者の私たちに対して二時間も三時間もお話が止まらない。それで、その聞いた話を自分たちの中だけに留めていちゃいけないなっていう、それをまた誰かに渡さなきゃいけないんだっていう思いはありましたね。「大事なものを今、預かってしまったぞ」みたいな感じはあった。

思いがけず、預かってしまったもの

――
(草児、前のめりで)そういうの、好きです。「それが何なのかわからない」っていうのはある意味的をえていて、また回ってくるかもしれないけど、とにかくもらったのだから次の人に渡していく。そんなふうにして世界が、人と人との関係性が成り立っている。その人は大事にしているのだけれど、正直、何かわからない。でもここに捨ててはおけないっていう感覚。これは神がかっているかもしれないけど非常に大事で、そう思えるタイミングって人生にそうそうないですよ。
小森
だから、目に見えない現実があるからそれを世に知らしめなきゃ、っていうような使命感とかが、自分にあまりなくて。たまたまそこにいあわせたというか。でもそこにいた人たちが話してくれたこととか、見せてくれるものを簡単に忘れたくない。自分の意志でもないし、やれって言われてやってるわけでもない。そういう感覚・・・。
――
石牟礼道子さんみたいですね。石牟礼さんとか、原田正純さんは同じことを言っている気がします。そうやって話を聞いたり撮ったりした期間は、けっこうあったのですか?
小森
一年くらいですね。東京と往復しながら。東北に行って、戻ってきたら報告会をやって。美大とか美術関係のネットワークの中ですけれど、なかなかその当時東北に行っている人はいなかったみたいで。「どういう現状か話してください」みたいな、そういう場をずっとつくっていたんですが、あるとき「君たちがやっているのはアーティストでもジャーナリストでもないし、研究者でもなくて、何やってるのかよくわからない」って言われて。

葛藤、そして新たな出会い

――
それは批判的なニュアンスで?
小森
「ポスト3.11どうなるのか」といったことを話したい人たちが増えてきている中で、私たちの「じいちゃんばあちゃんがこんな生活してました」みたいな、聞いた話をただ伝えているだけっていうのが、全然届かなくなってきた。それで自分たちが見ているものも、東京から通っているだけだから拙いというか、自分たちがちゃんと理解していないとも思ったし。
時間が経ってくればくるほど、もっと別の伝え方を考えなきゃいけないんだなぁっていうのに直面して、それじゃあ住んでしまえ!という感じで引っ越しをしたんです。
――
そのあたりで佐藤真監督の『阿賀に生きる(※)』に出会ったのですか?

※阿賀に生きる
1992年、佐藤真監督による作品。新潟水俣病という社会的なテーマを根底に据えながらも、そこからはみ出す人間の命の賛歌をまるごと収め、世界中に大きな感動を与えた。
(『阿賀に生きる』公式ウェブサイトより、2017年9月現在)
http://kasamafilm.com/aga/

小森
そうですね。それまで新潟のことにも縁がなくて、佐藤監督の名前くらいは知っていたんですけど。
――
どのような経緯で出会ったのでしょう?

小森
『阿賀に生きる』が、移住して撮られたものだっていうので最初は知ったんです。同じような立場で撮っていた人が二十年前にいたんだ、って。それですごい衝撃を受けた。そこからすぐに、カメラマンをしていた小林茂さんに連絡をして。ちょうど『阿賀に生きる』が渋谷あたりで再上映されているときで、直接連絡をして「会って話が聞きたいです」って伝えて。
――
そのときすでに『息の跡』を撮ろうと考えていましたか?
小森
まだ考えてなかったです。小林さんに会えたのも大きいのですが、まず、引っ越して見えるようになったものがたくさんあったんですね。通っていたときには気づかなかったことというか、生活すべてが震災に関係ある、みたいな状況に。でもそこで何を撮るべきなのかって、すごい難しくて。やっぱり震災前のことを、話としては聞くんですよ。あの頃はどうだったとか、こういう人がいたけど亡くなったとか。「今ないもの」の話ばかりなんですよ。
でもそれは実際に目の前にないし、私には撮れない。本当はそういうものを撮りたいけれど・・・人の記憶の中にしかないものを、映像で今さら何ができるんだろう、と。どれほどのものが失われてしまったのかわからないことへのうしろめたさというか、葛藤っていうんですかね。

「記録すること」に込める想い

――
自分の手が入ることで恣意的になってしまう、という懸念も?
小森
あったと思います。でも『阿賀に生きる』を観た時に、本当に、堂々と生きている人をそのまま堂々と撮ればいいというか・・・私が今陸前高田で見えていて美しいな、と思うものを美しいままに撮っていいんだな、と。「そういうことか」っていうのを思わせてくれて。
あと佐藤真さんが制作中のことをまとめた本があるんですけど、それを読んだときに、すごく迷っている姿がそこにあった。「今さら何をしにきた」って言われたり、カメラを向けても映らない、ただ阿賀野川のほとりを歩いているしかなかった、みたいな姿が自分とすごく重なって。同じところでぶつかっているんだな、自分も、というところですごく助けられたんですよね。
――
あの映画は水俣病の被害だけにフォーカスするのでなく、人間の営みそのものを切り取っているところにまず衝撃を受けます。「魚待ち」をしているシーンが印象的ですね。
小森
夢みたいな感じですよね。でも人間の営みそのもの。だから世代も、地域も、起きている問題も全然違うんですけど、あのじいちゃんばあちゃんたちが堂々と生きている姿が、今自分が出会っている陸前高田の人たちとすごい重なって。私がわかろうと思っても理解できないくらいの苦しさとか傷を抱えながら、でも陸前高田の人たちもめちゃめちゃ強く生きている。「がんばろう」的なことじゃなくて、もっと・・・ちょっと難しいんですけど、そのまま、全部受け入れて生きているというか。
――
震災はもちろん大きな出来事ですが、それがその人のすべてではなくて、その前から積み重ねてきた人生がある。『息の跡』も、必ずしも明るい未来に向かって開かれるのではないけれど、それでも坦々と命果てるまで佐藤貞一さんの営みは続いていくんだろうな、と予感させる。そういう静かな映画ですよね。
小森
本当に、そうなんですよ。それで、じゃあ自分は何をするのかって、そこから考えた。陸前高田で、震災前の街とこれからできてくる街をつないでいるような人たちのことを残しておくというか、そういうことならできるかもな、って。それで貞一さん以外にも何人か撮らせてもらっていて、それが結果的に『息の跡』につながっていくんです。
――
ドキュメンタリーって、関係性がつくられていかないと成立しない分野なのかな、と思います。撮っておしまい、「ハイさよなら」というわけにはいかない。作品としてでき上がってしまった以上は、人の解釈、評価も入ってくる。貞一さんとの関係性はおそらくこれからも・・・。
小森
むしろこれから、作品になってからの方が付き合いって大事だなと思いますね。それも『阿賀に生きる』に学んだことのような気がします。
佐藤さんって、舞台挨拶に一回も来てないんですよ。これはあくまで私(小森)の作品であって、自分はそこの参加者ではないというか。映画の中に映っている自分と現実の自分は別物だっていう意識をはっきり持っていて。もちろん仲はいいし、いつもよくしてもらってるんだけど、そこを一緒くたにしない方がいいんじゃないかっていう、そういう人なんですよね。
――
でもそれは、小森さんへの信頼あってこそですよね。
小森
信頼もあるでしょうし・・・責任もってやれよ、っていうことなんだと思いますけど。つくりたかったのはもちろん私だし。変ななれ合いにならないようにしてくれてると思うんですね、佐藤さんが。
撮る側と撮られる側の問題が最近よく話題になっていたので、自分も気をつけなきゃいけないって思うことはあります。
――
最初の方で話したこととも関連しますが、撮ること自体がある種の暴力である、と思うことはありますか?
小森
暴力性はあると思います。そういう危険なものになるってことは常に忘れちゃいけないと思うんですが、でもそれを暴力として振るっているつもりはない。十年後になって誰かが傷ついていたってことを初めて知ることになるかもしれないし、どの時点でそれが正しかったかなんてわからないとは思うんですけど・・・カメラを持つことに慣れちゃいけないな、という思いはあります。
――
NOOKのウェブサイトに「私たちは過ぎ去ったものたちや忘れ去られていくものたち、片隅へと静かにまなざしを向ける必要を覚えました」という一文があります(※)。それで、『息の跡』には小森さんの「まなざし」が如実にあらわれていたと思うんです。メッセージというものを決めてかかっていない。

※私たちは過ぎ去ったものたちや忘れ去られていくものたち、片隅へと静かにまなざしを向ける必要を覚えました
一般社団法人NOOK公式ウェブサイトより抜粋(2017年9月現在)
http://nook.or.jp/hp/about-us/

小森
決めつけはないけど、欲はあるんでしょうね。誘導している部分はどこかにあると思います。私なりに表現したいことを、自分でねじ曲げている部分はあると思う。そういう意味では、よくないことをしていると思うんですが・・・でも震災を伝えたいとか、そういうメッセージ的なものをそのまま伝えるのではない方法を考えたいんですよね。
ガイアみなまたの前にて、高倉親子、またこの当時隣町のつなぎ美術館で個展を開くために制作をされていた、画家の加茂昴さんとともに。

 

――
それでは、これから『息の跡』を見てくださる人に対して、監督からひと言お願いします。
小森
うーん、こういうの、難しいですね・・・。震災の映画っていうところで見たくない人ってけっこういると思います。私自身もテレビでやっていると消しちゃったりするときもあるので。
でもこの映画に出てくる佐藤貞一さんって特別な人に見えるかもしれないけど、彼がやっていることの根っこって、理解できる人はたくさんいるんじゃないかという思いがあるんです。何か大切なものがなくなってしまったとか、突然の別れとか、いろんな喪失の経験ってあるじゃないですか。そういうときに自分の手を使って、前のものを取り戻すのではなくて、これからのことと前のことを結び直していく作業というんですかね。そういう部分で共感なり、思う部分があったらいいなって思います。
あと佐藤さん、すごいユーモアがあるし笑えるから。何か同じように感じる部分があったらいいなという思いで上映しています。
――
ありがとうございます。

(車がガイアに到着して)

――
ガイアみなまたへようこそ!ところで新潟のことは撮ったりしないんですか?
小森
新潟、撮ってます。
――
撮ってるんですか!?
小森
ええ、去年くらいから。冥土連(※)に入って……。

※冥土連
『冥土のみやげ全国連合』の略。水俣病患者の方が、「水俣病になってしまってけど生きていてよかった!」という冥土のみやげをいっぱいつくるべく、新潟から立ち上がった。
(冥土連フェイスブックページより、2017年9月現在)
https://www.facebook.com/mmmeidoren/

――
冥土連に入ってるんですか!?
小森
はい、勝手に(笑)。

(終わり)

自主上映会のご案内

あなたの街で、『息の跡』上映会を開いてみませんか?初めてでも、配給元の東風がサポートしてくれるので大丈夫です。詳しくは下記URLの自主上映ご案内ページをご覧ください。

http://www.tofoo-films.jp/ikinoato/

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