善寛さんに恥宣言のことを聴く

対面シリーズ001

 

対面シリーズ……この特集は、僕たちの人生を僕たちの足で踏みしめて歩んでいくための基礎体力を得るべく、方々への対面を勝手に企画しているものです。

今回の語り手:山下善寛(やました・よしひろ)さん
……1940年9月18日生まれ。1956年から2000年までチッソに社員として在籍し、現在は企業組合エコネットみなまたの代表理事を務める。IWD東亜による水俣への産業廃棄物処理場建設予定が立ち上がった際に結成された市民団体「水俣の暮らしを守る・みんなの会」の代表としても活躍している。山下さんとは田んぼでの作業を介して知り合い、田や取水パイプの管理を通して、今も色々なことを教えていただいている。
※企業組合エコネットみなまた http://www.econet-minamata.com/

聞き手:高倉鼓子、高倉草児……ガイアみなまた職員

まえがきにかえて

「恥宣言」という声明文がある。

自らの恥を、宣言する……?初めて耳にする者には「いったいなにごとだ」と衝撃を持って受け止められるであろうこの宣言は、1968(昭和43)年の水俣で、チッソの労働者によって生みだされた。
私がこの声明文を初めて目にしたのは、四年ほど前のこと。水俣病事件史について学ぶなかで、「第一組合」「安賃闘争」というキーワードがたびたび登場し、その先に「恥宣言」があった。

安賃闘争(安定賃金争議)とはいかなるものだったか、簡単に説明したい。
水俣病問題の発生、また電気化学から石油化学へ移行する時代背景の中で、チッソは1962年の春闘回答により同一業種並みの賃金を保証する代わりに組合は争議を行なわないという「安定賃金」を提案した。これに対して労働組合(第一組合)が、合理化反対、賃上げ要求、というかたちでストライキを行なう。会社側はロックアウト(事業場の閉鎖)を行い、別の組合(第二組合)をつくらせ、組合の分断を画策し、力を削ぎにかかった。この争議を通じて第一組合と第二組合が対立し、翌63年の収束後もその溝はさらに深まることとなる。

今回インタビューさせていただいた山下善寛さんは、この安賃闘争時代の水俣を、チッソの労働者として生きた人である。これまで私にとっての善寛さん(親愛の気持ちを込めて、ぜんかんさんと呼ばせていただいている)は、田んぼの先生であった。ご高齢にも関わらず、率先して大雨で流されたパイプを修繕するその姿は眩しく、偉大だった。「百姓」とはまさに善寛さんのことだと思っていた。
しかしながら安賃闘争について調べ進めるうちに、善寛さんが第一組合に所属し闘い続けた日々のこと、水俣病患者に寄り添い続けた素顔が浮かび上がってきた。
そうして初めて「恥宣言」が、善寛さんの言葉として、改めて私に迫ってきたのである。
人間として生きることの矜持を感じ、胸が熱くなった。かっこいい!と思わず声を上げてしまった。
そんな恥宣言の全文を、ここに引用したい。

【恥宣言】
水俣病は何十人の人間を殺し何十人の人間を生きながらの不具者にし、何十人のみどり児を生れながらの片輪にした。水俣病の原因がチッソの工場排水にあることは、当時からいわれており、今日では市民はもちろん、日本中の常識になっている。
その水俣病に対して私たちは何を斗ってきたか?私たちは何も斗い得なかった。
安賃斗争から今日まで六年有余、私たちは労働者に対する会社の攻撃には不屈の斗いをくんできた。
その経験は、斗いとは企業内だけで成立しないこと、全国の労働者と共にあり、市民と共にあること、同時に斗いとは自らの肩で支えるものであることを教えた。
その私たちがなぜ水俣病と斗いえなかったのか?斗いとは何かを身体で知った私たちが、今まで水俣病と斗い得なかったことは、正に人間として、労働者として恥しいことであり、心から反省しなければならない。
会社の労働者に対する仕うちは、水俣病に対する仕うちそのものであり、水俣病に対する斗いは同時に私たちの斗いなのである。
会社は今日に至ってもなお水俣病の原因が工場排水にあることを認めず、また一切の資料を隠している。私たちは会社に水俣病の責任を認めさせるため全力をあげ、また、今日なお苦しみのどん底にある水俣病の被害者の人たちを支援し、水俣病と斗うことを決議する。
※新日窒労組『さいれん』1931号(1968年8月31日)より抜粋

「恥宣言」原文
恥宣言が掲載された、機関紙『さいれん』1931号(1968年8月31日発行)。

チッソの労働者でありながら、会社の責任を認めさせるために、水俣病の被害者を支援するために闘った人たちがいる。この事実を私は決して忘れない。
そしてそんな時代を生きたひとりである山下善寛さんは、現在も闘い続けているのだ。

安賃闘争から、恥宣言へ

(2017年5月15日 水俣市・もやい館にて) ※以下敬称略

――
恥宣言というものを初めて見たとき、言葉は変ですけど、ロックだなと思ったんです。この時代にこれだけのことを書ける人たちがいたということが衝撃的で・・・。
山下
その当時は水俣病の問題というか公害の問題に対して労働組合が対峙してこなかったという歴史があるわけ。だから、うちの組合も1959(昭和34)年の座り込みの頃は患者や漁民にテントを貸したが、会社から文句を言われてテントを引き上げ、「工場の操業を停止しろ」と言われたら、労働組合が自分たちの働き口がなくなるから「操業停止反対」と、むしろ企業の側に立っていた歴史があるわけ。そしてその昔、士農工商といったような身分制があったけど、水俣にも農業、林業、工業というように差別があった。工場労働者(会社行き)に対してはむしろ、さげすまされて、会社勧進と言われた。その後、農業や漁業がダメになっていく中で、魚が獲れなくなってから、逆に会社行きというものが認められてきた。
――
不思議な感じですが、チッソの中にいる方がむしろ差別のことを身近に考えていたと。
山下
1953年に一回、身分制撤廃闘争というものがあったの。安賃闘争の前に。だが身分制度がまだ残っていて、それをどうにかせんといかんというのがあった。チッソは酢酸とかオクタノールとか、有機関係の仕事が出てから景気がよくなった。私たちが入った頃(1956年頃)が一番景気がよかった。56年は水俣病が公式に発生した年だよね。
――
発生確認を聞いた後に入社?
山下
いや、あれは5月だろう。私は3月に入った。チッソは将来性があるということと、定時制高校に通えるということで、中学卒業してからすぐ入社した。むしろチッソに入れたことを誇りに思っていた。私は水俣病のことについては全然知らなかった。その頃はマスコミもあまり伝えなかったし、水俣病というのは社会的にあまり認知されていなかった。私が水俣病のことを知ったのは、漁民が座り込みをして、工場に乱入したときというか、その頃だもんね。
――
それに対してはけっこう、反発というか・・・。
山下
それはね。チッソは水俣病が起きてからすぐ技術部で、特殊研究室というところで、水俣病の反論のための研究をすぐ始めているのね。実際、私もあとから水俣病関係の分析に従事していたけどね。上部の一部幹部は水俣病の原因を会社ではないかと、それを知っとっただろうと思うけど。全然関係ない、チッソじゃないという感じで工場新聞なんかで「工場から廃水が流れたら希釈されて無害」というような感じで教育されていた。漁民が工場に押しかけてきたときには、私たちはまだできたばっかりの新しい研究室にいた。そこに漁民がばーっと押しかけてきて、ドアを閉めとったけど、近くにまだ建設中で置いてあった角材があって、それでドンドン突くわけ。我々は怖くてね。労働組合は労働組合で、何で工場に暴力を振るうんだと。そこで、暴力反対というか、「工場を守れ」という大会をやったんだよ。
実際それから(水俣病のことが)騒がれ始めたけど、なかなか関われなかったという問題があった。1953年の闘争を経験して、1962年の安賃闘争を経験するんだけど、そのときには、まだ企業意識が残っていたの。
山下
安賃闘争は、水俣病の問題よりも地域に与えた影響は大きかったいう人もいる。要するに、親、兄弟、親戚が(第一と第二で)対立して争う。我が家でも親子で対立したけど、夫婦でも、旦那と奥さんと別々の組合という人もあった。闘争が終わるまでは第一組合の組織が強かったけど、争議が終わってから職場で差別をするの。第一組合には、きつい仕事をさせて賃金、一時金とかは安い。希望退職や転勤も第一組合に狙いを定めて進めたりした。しかし何回やってもなかなか応じないもんだから、今度は「指名解雇」するぞと説得した。1968年から72年までの五年間で、当時三千人いた従業員を千五百名、半分に減らすという計画を出してきた。だから1968年に恥宣言をしたときには、第一組合が合理化反対というか、工場縮小撤退反対闘争を組織しようとしとったときなの。
そのときに、自分たちが会社からやられていることは、漁民の人たち、患者の人たちと同じじゃないかということに気付くわけね。要するに漁民の人たちも漁業組合が分断されて、低い補償金で漁場が奪われてきたわけだろう。そのことで、漁ができなくなるというか、そういう状況と同じであると。1968年の定期総会で、我々は安賃闘争は闘ったけど、水俣病に対して何もやってこなかった。水俣病を闘えなかったことは、人間として労働者として恥である、したがって今後水俣病を闘う。そういう恥宣言の内容になっていく。

「樫よりも柳」、そして喧嘩できる勇気

山下
私は会社から転勤を説得されても、絶対行かんと言ったけどね。俺はもうクビになっても残ると。
――
クビになっても残るってすごい言葉ですね。
山下
親を養わんばいかんし、水俣が好きだったから水俣に残るって決めた。しかし、自宅待機になってしまった。そのときには、私は水俣病対策市民会議に入っとった。自宅待機を受けて、1970年から労組の執行委員になった。1968年の1月に市民会議ができたとき、私たちは「ヤング市民会議」というのをつくったったい。要するにチッソ組合の若い連中とか、地域協議会の若い連中、そして胎児性の人たちとでね。裁判の傍聴とか、カンパ活動とかどんどん行きよった。私たちは若い人たちと、まずはひな祭りとか5月の節句とか、バスハイキングとか、飲んだり歌ったり。
――
かわいい(笑)。
山下
昔は「ヤング」だけん(笑)。「ヤング市民会議だより」とかつくったりしてね。清ちゃんとかしのぶちゃんとか、ちゃん付けで今も言うばってん、ずーっと小さかときから言っとるけんね。(本当は改めんといかんのだろうが。)
――
けっこう歴史の流れの中では厳しいことばっかりだけども、ヤング市民会議っていうのはその中で楽しみもある会という感じの捉え方でいいんですかね?
山下
私は、運動は楽しくやらんば、というのがあるのよ。地協の青年婦人部でも、楽しくやりたいと思って、生バンドでダンスパーティをやったりしよった。公会堂でツイストをやったり(笑)。ボーリング大会をやったり、そういうことばかりしていた。相思社に泊まって、飲んだ後、ラーメン食ったりなんかしたね。乙女塚でも泊まりがけでやった。

山下さんは2000年にチッソを退職するが、それまでもそれからも、組合運動や生協立ち上げ、石けん運動に自治会、PTA活動などを通して縦横無尽に人間関係をつくりあげていく。

――
活動の幅の広さに驚くとともに、つながりがたくさんあって、それが宝だなぁとも思います。その持続する力の源は何なのでしょう?
山下
いや、やっぱり、自分が信じることをやってきたというのと、させてくれる仲間がおったというか。私はあちこちで口喧嘩もするばってん(笑)、話が分かる人にはじっくり話をするけんさ。何も、全部自分を変えてしまわなくとも、同じ自分のままでその人たちともまたつながっていけばよいというかね。
――
その辺の割り切り方が僕らなんかは・・・言いたいことを少し丸くして言っちゃうということもあるし・・・でもどうなんだろうなぁと、時々思うわけなんです。
山下
あのね、そういふうに状況を見てやることも大事だと思う。「樫よりも柳」というね、その強さ。いつも固かことばっかり言うのでなくて。ただ私は「喧嘩できる勇気」ちゅうのも持たんばいかんと思う。一人になっても「絶対俺はイヤ!」と喧嘩する勇気(笑)。
――
今の善寛さんがそのように思えるのは、やはり安賃闘争があり、恥宣言があり、そういう一連の流れがあったからこそであると?
山下
もちろんそれもあるけど、私は水俣病の患者さんたちから学んだことがいっぱいあるね。その生き方というか。やっぱり自分が思ったことは絶対曲げないというかね。特に裁判が終わってから、本社交渉をするときに浜元フミヨさんが「銭はいらん、親ば返せ。兄弟ば返せ、両親ば返せ」と言うたごてね。やっぱり心の叫びというか、金じゃなかけんね。今でも水俣病は経済優先で、金で解決する・・・今の分断も全部金でやってくる、まず始まりは。だから私は金ではなくて、やっぱり自分の意思なり、信念を貫くというかね、そういうのが必要だと思う。

恥宣言は、センセーショナルか?

――
恥宣言に戻りますが、この宣言自体も喧嘩というかコブシじゃないですか。バーン!という感じで宣言が出てくるじゃないですか。何というか、横っ面張られるような・・・。
山下
そういう状況にあったというのもあるのよね。水俣病もそうだし、チッソの状況もそうだったし、化学産業を巡る状況もそうだった。それが凝縮したような感じで。私自身はこれを見て、こぶしを振り上げて「がーん!」と迫るといった感じは全然ない
――
そうなんですか!意外です。センセーショナルというか、この時期にこういうことを言えるというのがすごいと思ったんですが・・・。
山下
私はこれは、やっぱり人間としてというか、労働者というか・・・今こそ我々はやるんだという、そういう労働者の決意。ずうっと下がったときに、最大で何をやるべきかっていうところでの意思表明。何かこう、「恥宣言」は、ずうっと沈んだところから出た叫び、だと私は思う。労働者自身もそうだったと思うよ。切羽詰まった状況で、自分の生活が脅かされるかもしれんと。こういう状況になればこそ、水俣病患者さんたちと一緒に「人間としてどうか」という、そこのところで、一番基礎のところで共闘できたというか。
――
あとが無い状況ですよね。逃げ場がないというか。今だったらこういう宣言が出ると思いますか?
山下
今だったら?これは出てこないかもしれない。そういう水俣病の状況、チッソの状況、それから社会の状況というか、そういうのが相まって出たのであって、やむにやまれず宣言した文章、と私は思ってる。公害ストも日本で初めてというけど、水俣病問題と自宅待機の問題と絡ませてやった。何というか、勇ましい最先端の闘いをしているところもあるばってん、むしろやむにやまれず色々やってきたというか。だからこそ、私は反対に心を動かすんじゃないかと思うんだけど。やむにやまれぬ闘いだからこそ、ずっと続いてきているんじゃないかとも思う。他者の共感を得ているんじゃないかと。
――
最後にひとつお聞きしたいのは、善寛さんは今、チッソに対してどういう思いを抱いておられますか?
山下
1995年の政治決着のときに、原田正純先生から聞かれたことがあった。「チッソに対してどう思いますか」って。「潰れたらいいと思いますか。どう思いますか?」ってね。本心を言わせてもらえば潰れた方がいいと思った。しかし、潰れることで、水俣病の患者さんの補償がもらえなくなったり、労働者や水俣の市民が食べていけないというような問題も起こるけん、あのときには、潰すべきとは言えなかった。むしろ存続すべきと。私たち労働組合がずっと言ってきたのは、水俣病患者への補償の完遂。労働条件の維持向上。それから、水俣をこれ以上さびれさせるな。この三つの柱でずっとやってきたけん。
私は、チッソがもう潰れかかって、県債を受けんばいかんというときにも、ストライキをしたけん。会社が「こういう時期だからストライキをしてくれるな」と言われ、執行委員会の中でも「今はもうストライキはせんとがよかっじゃないか」という意見もあったけど、私は「いやこういうときこそせんばいかん。社会問題化するときだ、今こそストライキばせんばいかん」と説得しながらストライキを行なった。

今を生きる人たちへ

――
考えてみれば、ストライキというのは我々労働者の当然の武器ですよね。今は半ば忘れ去られてるけど。
山下
そう。だから今は、悪い組合って言われてしまう(笑)。だから沖縄にしろ、水俣にしろ、反対する人たちは、全部赤じゃとか、過激派だとか、赤軍派とかいう言葉も随分使われた。運動を進めるとき、分断政策というか、おそらくこうしてくるであろういうところを考えた上で、運動を組んでいく必要がある。
――
我々はもう、実はそういうことはあんまり考えられない頭になっている気がします。
山下
やっぱりそうかな・・・一人ひとりが大事というか、自立して闘うということが、ものすごく大事と思うんだよ。今度、渕上清園さん(※山下さんが師事する書道の先生)の書道展をやったろう。渕上さんがね、毎日筆で字を書くのに、筆の一本一本がしっかりして強く、ピシャッとして、それをうまく使えるようにならんと、よい字は書けんと言っておられた。労働組合もそうなんだと。一人一人がちゃんとしていないと、よい組合にはなれん。それで、「活動家にはなってよかばってん、運動家にはなるな」とね。
――
その意味するところは深いですね。
山下
若い人たちはほんなこつ、あんまり固くならんでよかと思うとたい。むしろ柔軟性があってこそ、強さが出てくると思うけん。書の話をもう少しすれば、渕上さんは「革新でなければ書は書けん」、真の書は書けない、ともよく言われる。だから、どれだけ革新的な考えを持って、柔軟性が持てるかじゃない?何も強がる必要もないし、弱がる必要もなか
――
それはこの、何十年を生きた善寛さんから言われるから重みがあるというか・・・。
山下
渕上さんは卒寿で、九十年生きてきた人も他の人たちに支えられて、生きてこれてる。だから今、ガイアで一生懸命やってて、自分が何をやりたいか、何を売りたいか、何を伝えたいか、それをずっと通していった方がいいんじゃないかなぁ。今何が儲かるかとか、そればかり考えていると、ブレるけん。やっぱり自分の信念を通してやっているときが一番楽しいのではなかろうか。儲かっとらんと、そういうのもあるかもしれんけど、しかし自分はこうだ、と思うのをやるのが一番じゃなかかと思うよ。
――
ありがとうございます。