甘夏を育てる岡本さん夫妻に会いにゆきました。

岡本さんの写真
左から、岡本穂積(ほづみ)さん、守(まもる)さん、そしてガイアの高倉鼓子。

見知らぬ土地で夫婦二人。山を拓き、甘夏を植えた。「じいさん」「ばあさん」と声をかけ合い、根気強く続けた農の道。
あっという間の、50年。

岡本守さん(87歳)、穂積さん(83歳)夫妻は、ガイアから車で5分ほどの南袋(みなみぶくろ)という地域で、甘夏やサラダ玉ねぎを栽培しています。ひらけた土地にはきれいに造成された畑があり、無農薬で作られた季節の野菜は、地元でも人気。
「水はけのよかっじゃっで。日当たりもようしてな」。
甘夏の樹はもう50歳を超えていますが、今も現役で、たわわに実を実らせています。「割とうまいのよ」と、穂積さん。味もお墨付きです。

岡本園の、たわわに実った甘夏。
日当たりの良い段々畑に甘夏の樹が植えられている。

お二人は甘夏を作るため、1960年頃に熊本県八代(やつしろ)から水俣へと移住。右も左もわからない中、それでも水俣で一番か二番目の最初期の生産者として、栽培に出荷にと励み続けました。守さんはかつて、農協で甘夏部会の役員を務めたこともあり、出来が良い年には「よかみかんじゃ」と表彰されることもしばしばだったそうです。
「その代わり、頑張って薬(※農薬)をかけんばん、って。『みかんの樹が枯れるか、俺が死ぬか』って言ってね」と、当時の守さんの言葉を穂積さんが教えてくれました。「よう今まで生きとったな」と笑う、守さん。

こんな話も聞きました。
「第一と第二(組合)が激しかったでしょ」。
1960年代の水俣は、チッソの安賃闘争(*注)によって町が二分されていました。チッソで働きながら甘夏を作る組合員が多い中、第一組合にも第二組合にも属さない岡本さんに甘夏普及の役目をと、白羽の矢が立ったのです。

*注:水俣病問題の発生、また電気化学から石油化学へ移行する時代背景の中で、チッソは1962年の春闘回答により同一業種並みの賃金を保証する代わりに組合は争議を行わないという「安定賃金」を提案した。これに対して労働組合(第一組合)が、合理化反対、賃上げ要求というかたちでストライキを行う。会社側はロックアウト(事業場の閉鎖)を行い、別の組合(第二組合)をつくらせて組合の分断を画策し、力を削ぎにかかった。この争議を通じて第一組合と第二組合が対立し、翌63年の収束後もその溝はさらに深まることとなる。

「『わが(※お前が)役員ばせろ』って。まだ村の人の名前もわからんとにたい・・・」と、守さんは当時を振り返って言います。

語り合う岡本夫妻。
懐かしみながら当時の記憶を語り合う二人。

4、5年前から農協の基準をクリアすることが難しくなり、出荷をやめることになりました。
「薬をかける仕事自体が、しようごとなか(※したくない)もん」。
自然と、無農薬での甘夏栽培になりました。でも目の前で実がポタポタ落ちるのを見ると、「ヘタ落ち防止剤を撒かんでよかろうか」と、今でも不安になるそうです。

そこをグッと我慢していただいて、今年から私たちとのお付き合いが始まります。
高齢のお二人があと何年栽培を続けられるのかは、正直言ってわかりませんし、私たちができることにも限りがあります。それでも、ここを、岡本さんと私たちの「はじめの一歩」にしたい。
ひとつには岡本さんの人生の、酸いも甘いも詰まった甘夏を食べてもらいたいから。そしてもうひとつは、私たちが目指したい甘夏の生産・販売のかたちへつながる糸口を探し続けたいから。前途は多難、でもそこに甘夏があれば、誰かが必ず継いでくれると思っています。

岡本さんの甘夏。

「あんたたちが出荷してくれるけん、よかとよ」。
そうなれば気を入れて剪定もしよう、というお二人の心意気に、私たちも応えたい。今季出荷分までは農協の化学肥料を施肥していますが、今後はきばるでも使っている有機肥料へと切り替えてくれることにもなりました。
今のところ収穫くらいしかお手伝いできないけれど、手の届く範囲のことを、しっかりやっていきたいと思います。

ふと、守さんが「もう俺は今年で終いっち、思っとるとたい」とこぼすと、すかさず「そんなこと決められるなら、死ぬ日も決めておいてくださいね~」と、穂積さんが冗談で返す。
相手をいたわる気持ちは、ちょっとした言葉にあらわれる。お二人のやり取りは、そんな愛に満ち溢れています。

岡本守さんと穂積さん。